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朔夜【直江編】

序章 第一章【】 第二章【】 第三章【】 第四章【...】

 真っ赤な目をした楓が特別丁寧に淹れてくれた茶を飲むころには、三人には普段の空気が戻っていた。

「ああ、もう。ひさびさにみっともないくらい泣いたわよ」
 茶を啜って人心地ついた綾子が泣き笑いの顔で言うと、
「みっともなくなんかねぇ」
 その隣で長秀がぼそりと呟いた。
 この男がそんな台詞を言うことなど滅多にない。綾子は驚いた顔で問い返した。
「なぁに?それはいい意味なの?」
「……いい女はな、泣いてもいい女なんだよ」
 それに対する返事も、軽口にしても非常に珍しい類のものだった。腐れ縁といってもいいほどの付き合いの彼らの間でそんな遣り取りが交わされたことは、未だかつて無い。
 綾子は少し黙ったあとに、おどけるような笑みを見せた。
「……なに、あんた今ごろそんなことに気づいたの?あらまあ、残念だったわね。今のあたしには譲れない人がいるのよ?」
 すると長秀もいつもの顔になって茶化すような笑いを浮かべた。
「そういう意味じゃねーんだがな」
「いいのよどっちでも。珍しい台詞が聞けたんだから」
 綾子は嬉しそうな顔でふふんと笑う。
「ま、たまにはな」
 長秀が声を上げて笑った。
 非常に珍しい類の空気が、長秀と綾子の周りには流れている。

「……主、完全に忘れ去られてません?」
 目の前にいるのに全く存在を無視されている男に、背後から楓が小声で問いかけた。
「―――そのようだ」
 複雑な顔で茶碗を口元に近づけると、主は重々しく肯いたのだった。

 そのときふと、直江は何かに気づいた。
 階上で、高耶の気配が変わったのだ。
 首を傾げる間もなく、次いで起こったのは、鋭い波動だった。
「独笛……」
 普通の人間の耳には聞こえない特殊な笛の音を、直江は聞いた。
 その笛は、ある特殊な波動を発するものだ。特定の人間にしかその音は聞き取れない。普通、主がそれを携え、部下を呼ぶときに使われるものである。“橘”の開発した道具だ。
 直江はすっくと立ち上がった。
「直江、今の……」
「間違いない。独笛だ。高耶さんしか考えられないんだが、一体どうしてあれを持っているんだ……?」
 同じものに気づいた二人にそう答えると、直江は足早に廊下へと出ていった。
 長秀と綾子も即座に後へ続く。

 ―――屋根の上を、彼が歩いている。気配でわかる。
 しかし一体どうしてそんな真似を……?

 頭上に感じる移動の気配は、やがてすとんと庭の上に落ちたようだ。このままでは、邸を覆う結界の外へ出てしまう。
 直江は歩調を速め、玄関へと走っていった。

「高耶さん!」
 がらりと引き戸を開け放つと、果たして彼はそこにいた。しかも裸足で、道の方を向いている。
「直江??」
 驚いた表情で振り返る彼に、直江は駆け寄った。
「高耶さん、独笛吹きましたよね?って、どうして裸足なんですか!楓、靴を持ってこい」
 後ろについてきているはずの部下へ命じながらの動作だったが、有能な部下は命令を待つまでもなく目的のものを携えていた。彼の姿を目にした時点で、既にその必要性を悟っているのだ。
 わけがわからないという顔の高耶のところへたどり着くと、脇から差し出された靴を受け取って、直江は彼の前に片膝をついた。
「どうぞ」
 それらをきちんと揃えて彼の足元に並べ、立ったままで靴を履くのはバランスが悪いので、支えの為に手を差し出す。
「……ありがと……」
 相手は素直にその手につかまると、どこか困ったような顔で靴を履いた。困ったようなというよりは、惑っているといった方が正しいかもしれない。
 もの問いたげな眼差しで、屈んでいる男の普段よりも低い位置にある瞳を見たが、ふと何かを思い出したようにその色を変えると、彼は突然歩き出した。
「高耶さん!!」
 驚いて叫ぶと、彼は振り返りざまに、
「直江、とりあえず門の外に出よう」
と声を掛けてきた。何を考えているのか、その表情からは量れない。
 そうして再び門の方へ向かった彼を、長秀が駆け寄ってとどめた。
「景虎、どうして外に出ないといけないんだ?」
「どうしてって、人を呼んだ。でも、この屋敷の中には入れないんだろ?
 だったら、オレが出なくちゃいけないからな」
 そこへ追いついた直江は、相手の台詞に打たれたような気分を味わっていた。

 人を呼ぶ。
 吹く人間とそれを聞く人間がただ一人ずつ結び付けられている道具である独笛を使った以上、それは当然のことだろう。
 しかし―――
 彼は一体誰を呼んだというのか。
 あの笛で繋がるような人間が、彼には存在していたのか……

 男のそんな叫びには気づかず、高耶は長秀たちと問答を続けている。
「呼んだって、誰を?」
「う〜んと、小太郎」
「……小太郎って?」
「ねーさんまで……。もういいだろう?ついてきたら判るんだし。そろそろ来ちゃうと思うけど」
 口々に聞かれてため息をついた彼が再び歩き出そうとしたところを、ようやくまともに言葉を紡げるようになった直江が引きとめた。
「高耶さん、外に出る必要はありません。その人は入れるようにしますから」
 ポーカーフェイスでそう声を掛けたが、本当は頭の中で警鐘が鳴り響いている。
 近づけたくない。誰も、この人には近づかせたくない……
 そんな想いにはゆめ気づくこともなく、相手は素直に微笑んだ。
「そんな事もできるんだ。ありがとう」
 その笑みが男の心を抉ったことにも、彼は気づかない……。

 ともかくも、直江は結界を部分的に開いた。
 あの独笛の波動に同調する気配をはじかないように少し手を加えたものだ。

 すると―――高耶の言葉が終わるのと殆ど同時に一陣の風が生まれ、高耶の目の前に一人の人間が現れた。

 直江にも負けないほどの大丈夫が、その場に片膝をついて頭を垂れている。
 黒尽くめの服装といい、身に纏う無表情な気配といい、その男がどのような種類の人間なのかは一目瞭然。
 忍びだ。
 それも、この男の気配は……

「高耶様、何か御用でしょうか?」
 落ち着いた綺麗なバスは、しかし完璧な無表情を保っている。柊や千種を極端にすれば、ちょうどこのような感じになるかもしれない。
 その男の主であるらしい高耶は、そんな相手の様子に苦笑に似た笑みを浮かべて答えた。
「オレがどうして、こんなとこにいるのかとか、聞かないのか?」
「……私は高耶様がどこにいようと、何をなさろうと、下される命令を実行するだけですから」

 ちくり、と胸が痛んだ。
 いつか自分もそう言った。あなたという存在だけが全てだから、何をしようとどの道を選ぼうと、それについてゆくだけです―――と。
 同じ言葉をあなたに捧げる人間は他にもいたのだ……


 直江が自分の中の嵐に惑っている間に、直江の先ほどの引っかかりを楓が高耶に訴えた。
「何?どうかしたのか、楓」
 その視線に気づいたらしい彼がそう尋ねると、彼女はちらりとこちらへ視線を寄越すと、主の目に制止の色のないのを見て取って口を開いた。
「……景虎様、その、今現われた彼は何者ですか?」
 複雑なものが絡んだその問いに、彼が眉を寄せる。
「……どういう意味だ」
「景虎様が彼を呼ぶときに独笛を吹きましたよね?あれは、直江、いえ、直江というよりは橘の道具です。
 そして、私のこちらの世界での配下のものが住まっている里のものです」
 楓の言葉が、彼の縦皺を深くする。
 かなり不審そうな色を浮かべて、彼はやがて問い返した。
「……それはつまり、小太郎は橘の者だという事か?」
 どうやら彼は独笛の由来を知らないらしい。
 その言葉に楓は首を振って、
「いえ、それは違うと思います。そして、その小太郎は“橘”の名前も知らないはずです」
 高耶はますます不審な顔になる。
「よく分からないんだけど。……小太郎は、どっかの里の出身なのか?」
 視線を転じ、目の前に膝をついたままの黒い男にそう問う声も、意味がわからずに戸惑っていることがすぐに伝わるものだった。
「はい、そうです。しかし、先程からの話は私には分かりません。
 父も何も言ってませんでしたから」
 答える男はやはり淡々と一本調子に言葉を紡ぎ、その内容に全く関心を持たないかのようだ。
 高耶は相手のそんな声に反応の返しようがないらしく黙ってしまう。
 直江は、ここでようやく口を挟んだ。
「……小太郎、でしたっけ?あなたは里を抜けてきたんですか?」
 自ら目をそらすような無様な真似はできない。
 まっすぐに鉄面皮を見据え、問うと、
「そうですが。……高耶様、この方たちがどなたかお尋ねしてもよろしいでしょうか?」
 男は軽く肯くようにしてから、視線を動かして主人を見上げた。
 さすがに事情がおかしいと感づいたのだろう。
 自分たちの特異な気配に、通ずるものを持つ身なればこそ敏感に感じ取ることができたのだ。
 そんな男の様子に少しだけ珍しそうな眼差しをして、高耶は答えた。
「あぁ、そう言えばなにもいってないんだったな、まだ。
 えっと、今世話になっている……」
 そこまで言いかけて、ふと言葉を切る。
 視線がこちらへと向けられたことで、その気持ちがすぐに伝わった。
 自分たち魔界の住人のことを勝手に話してしまってよいものかと戸惑っているのだ。
 直江は、彼の代わりに言葉を引き継いだ。
「橘、義明です。……そして、後ろにいるのが綾子に、千秋」
 現時点では全てを明かすことはできない。たとえこの男が橘の里に所縁の者とあっても。
 直江はこの世界における自分たちの通り名を簡単に説明しただけで済ませた。

 三人の軽い会釈に目だけで肯いていた相手の関心は、最後に楓の方へ向けられて止まった。
「最後に、今さっき話していたのが楓。あなたのいた里の長を、統べる立場の人です」
 そう。
 楓は直江の《諜報》である。彼女の一族はこの世界にも古くから根を下ろし、全国へ“橘”の里を築いて統率してきた家系なのだ。
 この男、小太郎の気配は間違いなくその里のもの。独笛の契約を受けていることが何よりの証である。
 ただしこの男自身は自分の里がそんな風に誰かに統率されていたということは知らない。
 里はあくまで個々の存在。簡単に上がわかってしまうような構造には作られていない。あくまでその里の人間にとっては自分たちの里がただ一つだけのものであって、他に存在する様々な里と上で繋がっているなどということは知らないのである。
 横のつながりは、意図的に断たれているのだから。

 そういう事情をどこまで察したかはわからないが、次にその男が紡いだ問いは楓にも自分にも予想を外れた角度からのものだった。
「それは、どういう意味ですか?……私の父よりも上?」
 長を統べるものよりも上なのか、という意図のその問いからわかることは唯一つ。
「……もしかしてあなた、長の息子なの?なのに、『抜け』?」
 楓の驚いたような問いかけに対する相手の微かな反応が、それを肯定していた。

「どういう事なんだ?」
 やがて、完全に放っておかれた形の高耶がそんな問いを口にのせるまで、その場は奇妙な沈黙に支配されたのだった。


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