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序章 第一章【壱弐参四】 第二章【壱弐参】 第三章【壱弐参四伍】 第四章【壱〜四...】
さて、翌朝のこと。
午前中に彼の身の回りのものを買いに出る予定だったが、誰とどこへ出かけるかということで一悶着起こった。
男は自分が服を仕立てさせている店に行くつもりだったのだが、
「何考えてる?あんな店、高校生の行くとこじゃねぇだろうがよ。
……お前、どっかずれてんだよなあ、まったく」
と長秀が諌めたのである。
茶碗を片手に首を傾げていた彼は、長秀がその店の名を挙げた途端、目を丸くした。
「あの店って、一般人には殆ど知られてない、上層連中の御用達だぜ。直江ってあんなとこで服作ってたのか……」
そして碗を置いて男に向き直り、
「長秀の言うとおりだ。あそこはオレが行くようなとこじゃない。もっと普通のとこはないのか?」
と、腕を組んだ。
ごく普通の高校生ならば、駅ビルがいいとか、オーパにするとか、いくらでも案を挙げようものだが、奈何せん、彼は筋金入りの名家出身である。街中や繁華街のことなど、知識自体が乏しいし、まして実際に出かけた経験は皆無に等しい。
一方、男の方はこれまた普通でない。高校生が入り浸るような店には全く用事を持たない直江は、当然ながらそういう場所の勝手を殆ど知らないのである。
二人して、箸を止めて黙り込む。
「……あああ、もう!」
こんな二人に挟まれて、比較的街中に溶け込んでいるタイプの長秀は、我慢ならなくなったらしい。
箸を突きつけて、説教するように言い聞かせる。
「お前らなあ、じれったいにも程があんだよ。
いいか、今時、高校生つったら河原町か駅に出るもんだ。まあ、何を買うかにもよるけど、衣料品だけじゃねぇだろ?だったら何でも揃うとこに出た方がいい。街行くぜ、街。
しょうがねぇから俺様が連れて行ってやる。ほら、来い、大将」
その勢いに流されて首振り人形と化していた彼だったが、この最後の言葉に、はっと何かを思いだしたようだった。
ものすごくじっとりした目になって、長秀をたじろがせる。
「な、何だよ」
彼は低い声で言った。
「オレ、お前の運転だけはごめんだからな」
―――どうやら、最初の印象がよほど悪かったようである。反省しろよな、と咎めだてるような眼差しで相手を見すえる彼だった。
だが、長秀にかかっては、それも新たなからかいのネタにしかならない。
嬉しそうににやりと笑って、
「はあん、やっぱ恐かったんだろ。お子チャマだねぇ」
「お前の運転がいかれてるんだ!」
ふるふると拳を握り締めて叫ぶ彼にも、どこ吹く風の長秀である。
「無事故の神様に向かって、何言ってんですか」
「事故らなきゃいいってもんじゃねぇだろ!しかも無免なんて、問題外だ」
―――その通りです。
男は長秀の悪夢としか言いようのない運転を思い出しながら、内心で肯いていた。
しかしこのままでは、そうこうしているうちに開店の時間になってしまう。
なおも額をくっつけかねない勢いで問答している二人を、
「はいはい。そこまで」
時間の無駄だ、とばかりに引き剥がす。
文句を言い足りなくて不満げな彼に向かって、宥めるように言い聞かせた。
「車は私がまわしますから、安心してください。買い物には、まあ、長秀にもつきあってもらいましょう」
そう言うと、長秀が顔をしかめた。
「お前さあ、男が三人、並んでうろうろするつもりか?この三人が連れ立ってたらどれだけ変な集団だか、わかってないだろ。
悪目立ちするぜ。一体どういう取り合わせなんだ、って」
「そうか?」
首を傾げると、彼も長秀に賛成らしく、
「確かに変だな。年齢層も違えば、顔が似ていないから親戚でもとおらない。
……そもそも男ばっかり三人で連れ立って歩くなんて、聞いたこともない」
「そういえばそうですね」
なるほど、変な集団だ。
男は見た目、二十七、八歳。長秀は二十五、六歳。
また、仕立てもののスーツが似合う大人な男に対して、脱色した肩までの長髪を後ろで括った、カジュアルなスタイルの長秀。
そこに、高校二年の彼を加えてみれば、どうなるか。
―――いかにも奇妙な取り合わせだ。
男は少しため息をついた。
気を取り直して、提案する。
「では、こうしましょう。
車は私が担当します。店はあなたと長秀でまわってください。私は少し離れて、後を護っていますから。
買い物が済んだら、昼食は三人で取りましょう」
その案にあらかた賛成らしい彼は、一点だけ気になることがあったようである。
「後を護るって、尾行みたいにするのか?」
首を傾げるのに、答えてやる。
―――この名は出したくなかったのだが、仕方あるまい。
「……たぶん今頃、仰木の手の者があちこちを張っているでしょうから。念のためにね」
「……」
途端、予想したとおりに、彼の瞳が冷えた。
「そうだったな」
呟く低い声。
今の今まで寛いだ雰囲気を纏っていた姿が、初めて見たときと同じ、触れれば切れそうな空気を醸し出していた。
―――無理もないことだ。
瞬時に固く張ったその背を、男はぽんぽんと叩いて微笑みかけた。
「嫌なことを思い出させてしまってすみません。そちらは私が相手をしますから、あなたは気にしないで。
こんな風に買い物に出かけるのは、初めてでしょう?長秀ならこういうこともよくわかっているでしょうから、せいぜいつきあってもらうといいですよ。ね、楽しんでいらっしゃい」
横から長秀も、
「そ〜そ。俺に任せなさいって」
と胸を張り、ようやく彼は強張った顔の緊張を解いた。
そして、ふと思い立ったように口を開く。
「なあ、直江も誰か連れて行けば?一人でうろうろしてたらそれこそ変だぜ」
「そうだな、楓に来てもらえば?」
と長秀も肯いている。
男は少し複雑な顔になった。
「楓、か?」
実を言うと、男は楓と二人になるのが好きでないのだ。
楓を嫌っているわけではないが、……彼女には一つ、男を閉口させる欠点があった。
男はため息を吐いた。
「あのおしゃべりにつきあう元気はちょっとなぁ……」
そう。楓は明るく元気な、いい女なのだが、些かおしゃべりに過ぎるきらいがあるのだった。
大勢でいるときならともかく、二人だけのときにそう喋られては疲れる。
男のため息には、そういう所以があったのだ。
「元気がないとはねぇ。―――さすがは、お・と・し・よ・り ★」
長秀は楽しそうである。わざわざ強調して、最後の単語を発音した。
「たかだか四十年の差だろうが。いちいち煩いぞ」
男の眉間に皺が刻まれる。
してやったりとばかりに、長秀は笑った。
「じゃ、がたがた言いなさんな。楓を呼ぶぞ。
―――楓!」
呼ぶと、昨夜同様、直ちにダイニングに現れた楓である。
「お呼びですか?あ、ついでにお茶をお持ちしましたので、お注ぎしますね」
……熱い湯をたっぷりと注いであるらしい急須を盆に載せて、よくもまあ、瞬時に現れることができるものだ。
彼はそういう目をして、楓が茶を注ぐさまを見つめている。
こぽこぽ……
青磁の碗に液体が吸い込まれ、ふわりと良い香りが広がる。
三人分の湯呑みから湯気が立ち始めるころになって、男が口を開いた。
「これから買出しにでるのだが、ついて来てくれるか」
―――おそらく自分は渋い顔をしていることだろう。
楽しそうに笑ってこちらを見てくる長秀の表情から、そう確信する。
一方の楓は嬉しそうに笑って承った。《諜報》の仕事を抜きにして街へ出られるのだから、そこはやはり若い女性である。
ただちに支度を整えて参ります、と軽やかな足取りで廊下へ消えていった。―――それでも盆に載せた急須を微動だにさせないところが、筋金入りの部下ぶりである。
見れば、ひたすら感心してその姿を見送っている彼がいた。
「面白い女だろ?」
早々に湯呑みを空にした長秀が彼に同意を求めると、初めて意見が一致したようである。肯いて、
「みごとに部下してるのに、あんまり主従って感じじゃないんだな。喋るときとか」
「ああいう性格なんですよ。時々困りますけどね……」
男は再びため息をついた。
―――その前に置かれた茶碗は、手つかずのまま冷めてゆく運命にあるようだった。
「楽しそうですね、高耶様」
長秀と二人、雑貨コーナーを歩き回って、一つ一つ、これはボツ、こっちはOK、とチェックを受けている彼を遠目に見守りながら、楓が呟いた。
「あぁ」
シルバーアクセサリーのショーケースの前に陣取って、うわべだけは、鈍い光を放つリングを見ているようなスタイルを保ち、そこから彼を見守っている男と楓である。
楓は黒いレザーパンツにオレンジブラウンのコーデュロイジャケット。首が寒いからと結んできた緑のスカーフは建物の中に入ってから外していて、すんなりした首のラインを見せていた。一方の男は相変わらずの黒い出で立ちながら、薄手のセーターの上にカジュアルスーツという、いくぶんくだけた服装である。
さて、店はまだ開店したばかりで、人も少ないかと思いきや、今日は土曜日。
この時間でも、自分たちの不審な行動が他人の目に違和感を起こさせずに済むほどには、人気があった。
「おはようございます〜」
ふと掛けられた知らぬ声に意識を戻せば、必要以上にじゃらじゃらと鎖やらピアスやらを引っ掛けた若い女性がいる。
店員自ら装飾品の使用例を買って出ているものか、どうしてここまでたくさん身に着ける必要があるのかと疑うほどだった。
―――いや、これは単に本人の趣味の問題だろう。
濃すぎて却って不気味なそのマスカラを目にし、内心でひとりごつ。
ペアリングか何かをお探しですか、と寄ってきたその店員をすげなく追っ払い、二人は少し場所を変えた。
「あ、可愛いですよ〜見に行きましょう、信綱さま」
楓に引っぱられて、何故だか喫茶店のショーケース前に立たされる。
やはり甘いもの好きは女性のさが。楓もそこに並んでいる種類豊富なケーキに惹かれたらしい。
「茶を飲んでいるひまはないぞ」
苦笑して釘を刺すと、そうですよねえ、と名残惜しそうにそこから離れた楓である。
それで諦めると思いきや、今度はすぐ隣にある雑貨コーナーに連れて行かれた。
「ここのロゴ、可愛いでしょう?好きなんですよね〜」
語尾にハ−トマークでも付きそうな声音である。
言われて気がついたのだが、この雑貨屋は隣の喫茶店の続きのようだった。文房具にも、食器にも、店の名と同じロゴが打たれている。
―――ティーセットはともかくとして、何で喫茶店の名前入りのTシャツなんぞに需要があるのか……
男には理解できなかった。
ふと見れば、足の裏部分にロゴが刺繍されたテディベアを片手にレジへ向かう楓が目に入り、男は深いため息をはいた。
そうして何度も場所を変えながら、ようやく彼の買い物は一段落した。
長秀と二人で手分けして袋を提げた彼の姿を、男は噴水コーナーのへりに腰を下ろして見守っている。
そして、何故だか男の手にも荷物が増えていた。
「楓……副業でもしているのか、あいつは」
橘の仕事人としての支給金では到底賄えないと思われるような支出の結果物を両手に提げて、男は呟いた。
男女の二人連れで男性が手ぶら、女性が荷物を抱えているという図はビジュアル的に不自然だということで、男がそれらを持つはめになったのである。さすがに楓は申し訳なさそうな顔だが、それでもまだ色々と惹かれるものがあるようで、今も、へばった男を置いて、混みあった秋物セールコーナーへ果敢にぶつかっていったきりだ。
さて、彼はさっと辺りを見回してこちらに気づき、小さく肯くと、携帯電話を取り出した。
ここからいきなり合流するのはいかにも不自然なので、買い物が済んだら携帯で連絡を取ることになっていたのである。
ブルル、と胸ポケットに振動を感じて、両手の塞がった男は苦心してそこから携帯を引き出した。
「……はい。もう済みましたか?」
姿の見えた会話は、どこか変な感じがした。
携帯を片手に、彼もこちらを見ている。
「ああ。お待たせ。ところで、楓は?」
男の隣にいるはずの姿がないのを見て、小首を傾げているのが見えた。
「楓でしたら、あの人ごみへ突っ込んでいきましたよ。もう戻ってくるでしょう」
「はあ……。女って、そういうもんかな。―――やっぱり直江の持ってる荷物、楓のか?」
感心とも呆れともつかない仕草で、首を振っている。
「ご名答。これでは誰の買い物に出てきたのかわかりゃしませんね」
「そうかもな」
そんな会話に笑っていると、程なく楓が戻ってきた。
ばっちり戦利品を携えて帰ってくるその姿に、会話中の二人は同時に吹き出したのだった。
「昼は駅ビルだ」
長秀の勧めで、駅ビル内の串カツ屋にやってきた四人である。
「お、いらっしゃい、千秋さん」
「おぉ」
長秀がよく通っている店らしい。カウンターの向こうで串を両手に三本ずつ握って揚げにかかっていた、店主らしい年配の男性が、気さくに声を掛けてきた。
四人は、横に長く、奥行きの浅い店内に一人ずつ入ってゆき、カウンタ前に腰を下ろした。ここは、入って左側に四人ほどの座敷席がある他は、正面から右の奥まで続く、十人ばかり座れそうなカウンタ席という、極めてこぢんまりとした店である。
「雅℃l人な」
物慣れたようすで注文する長秀に、
「はあい。みやび四人さまです〜!」
店主らしき先ほどの男性以外にまだ二人、カウンタの向こうで忙しく立ち働いている若い男性のうちの一人が威勢良く復唱した。
「すごい……こけしとか張り子が一杯並んでる」
腰掛けて店内を見回していた彼が、天井近くの壁に設けられた奥行きの浅い棚にずらりと並べられた、こけし人形や張り子の置物に目をとめて呟く。なるほど、なかなか壮観だった。
「失礼します」
そこへ今度は女性の店員が、カウンタ越しではなく席の方をまわって、よく冷えた野菜のサラダと、じゃこの佃煮、ご飯、しじみの味噌汁を運んできた。程なくして、次はカウンタ越しに、ニンジン、キュウリ、大根などの生野菜をスティック状に切ってぎっしり詰め込んだ陶器のボウルが差し出される。
「これはおかわり自由だぜ」
ぽきぽきとキュウリを齧りながら、長秀が解説した。
しかし結構な量である。おかわりまで手がまわる人はいるのだろうか、と思っていたら、奥の席の客がネギを頼むのが聞こえた。
すこし感心しながらこちらも野菜にかかり、スティックを終わらせると、底にプチトマトが現れた。
「このトマト、おいしいですね」
楓が言ったとおり、程よく甘く、酸味もあってなかなかおいしい。
そうこうしていると、カウンタの向こうから、串が差し出された。
「シイタケの紫蘇マヨネーズ掛けと、若鶏のささみです」
解説つきで皿に載せられた串はむろんのこと揚げたてである。
ささみを口に入れてみれば、うっかりすると火傷しそうな熱さで、これもおいしい。
「どんどん来るからな。ぐずぐずしてっと冷めちまうぜ」
長秀は既に二本たいらげて、ニンジンのおかわりを注文していた。
彼はと見ると、どうやら猫舌気味のようで、湯気を立てる串とにらめっこしている。
どうにか二本済ませると、茶を啜る間もなく、すぐにまた次の串が載せられた。
長秀の頼んだ雅≠ヘ、あらかじめ何本と決まった串をこのように順次揚げつつ出してゆく形式なのだった。これはその本数によってコースが違い雅≠ヘ十本のコースである。このほかに、客がストップをかけるまで何本でも出されてくるおまかせ≠ネどもあった。
「女性には大敵かもしれませんね……つい食べ過ぎてしまいそう」
ふと楓が呟いた。
文句は文句でも、おいしいがゆえにこぼれる文句である。
それを耳にした店主は、顔を綻ばせていた。
そうしてしっかりと昼食を取った四人は、既に一時を回っていることに少し慌てながら、帰途についた。
男がハンドルを握るウィンダムは、滑るように走っている。
先日のレパードとは、随分な違いようだった。
いまだにそれを根に持っているらしい彼が長秀にそれを言うと、相手は、無事故こそすべてさ、と軽く流して狸寝入りに黙ってしまった。
助手席に納まっている楓は、どこから出したものか、イヤホンをはめてCDプレイヤーに今日の戦利品を入れている。時折洩れ聞こえる声から推して、それは洋楽のようだった。
この二人がそれぞれの世界に入ってしまっているので、残った二人は、運転席とその後ろという、会話には甚だ不便なポジションながら、ミラー越しに会話することになった。
「どうでした?納得のゆくものを買えましたか」
黄色に変わった信号に注意しながら、男は声をかけた。
―――赤。
車はゆっくりと速度を落とし、穏やかに停まった。
「……結構、楽しかった。オレは長秀の従弟で、受験に専念するために一人暮らしを始めたってことにしてさ。時期が変だけど、まあ世の中、変な奴って多いんだろうな、店員さん何も言わなかったぜ」
彼は伸びをして一つ欠伸を吐くと、そう答えた。
「楽しかったなら、良かったですね」
後ろを振り返って、男は微笑む。彼の欠伸に、満腹感に伴う眠気を見て取って、
「どうやらこの先、道が混んでいるようですから、少し時間がかかるかもしれません。
眠っていて構いませんよ。着いたら起こしてあげましょう」
「んー……」
じゃ、少しだけ、と言う言葉じりも朧に、彼は忽ち寝入ってしまった。無邪気に安らいで、幸せそうな寝顔である。
それは仔猫が丸くなって眠る姿にも似て、男は目を細めた。
しばらくそうしていたが、
「信号が変わりました。信綱さま」
と楓に言われて、名残惜しそうに前へ向き直り、再びアクセルを踏み込んだ。
実を言うと、道は空いている。
けれど、あの寝顔をできるだけそのままにしておいてやりたくて、男はわざと遠回りすることにした。
現実はこれからますますつらくなる。
だからせめてひとときのまどろみを、あなたが貪れるなら……
邸へ着いたのは、二時も半ばを過ぎた頃だった。
よく寝ている彼を起こすのは後にしよう、と先に荷物を運び出して玄関を入ると、客間から声が聞こえてきた。
「ええ、何なの?せっかく急いで来たっていうのに、みんな出かけてるってどういうことよっ」
「いえ、ですから……信綱さまと長秀さまは、高耶さまの身の回りの品をお買い求めに、お出かけになったのです」
「そうじゃなくて!何でさっさと帰ってこないのよ。それか、あたしが来るまで待っててくれなかったのよ!」
金切り声、とまではいかないが、興奮ぎみの女の声を、千種が宥めている。
女の声に、男は心当たりがあった。後からこちらも荷物を抱えて入ってきた長秀と、顔を見合わせてため息をつく。
襖を引いて、一喝した。
「なんでお前がここにいるんだ、綾子 !? 」
「お帰りなさいませ。長秀さま、信綱さま」
きちんと指をついて出迎える千種の向かいに、女性がいる。
「ご挨拶ねぇ。久しぶりに会ったっていうのに」
背にかかるくらいの、ゆるく波うった茶色い髪をしたその女性は、綺麗なアルトの声をとがらせた。
「ああ、わかった。だがな、外まで聞こえるような声で家人に食って掛かるのはよせ。何ごとかと思うぞ」
男の苦い説教も当然のことだったが、その女性―――門脇綾子にはそれこそ何ごとかという事情があった。
「ふうん。聞いて驚きなさいよ?」
彼女は、いっぺんあんたたちの度肝を抜くようなことを言ってやりたかったのよねぇ、と勿体ぶった後に、腰に手を当てて胸を張り、爆弾宣言を果たした。
「あ・た・し・が、柿崎の長なのよ」
―――男たちがばたばたと荷物を取り落としたといって、誰にもそれを咎めることはできないだろう。
序章 第一章【壱弐参四】 第二章【壱弐参】 第三章【壱弐参四伍】 第四章【壱〜四...】
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