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朔夜【直江編】

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「……直江」
 長秀が、低い声で場の沈黙を破った。
 綾子の長い話が終わって、沈黙を夕食で紛らわせた彼らは、リビングのソファに移動している。

 高耶はあまりの怒涛の展開についてゆけない様子で、疲れた顔をして二階へ上がったばかりだ。風呂を勧めたのだが、その元気はないようだった。
 無理もない。
 自分たちでさえ、綾子の話には大きな衝撃を受けた。あの叛乱の意味を、おぼろには察していたものの、事実そんな意図を以って主君や父が命を捨てたのだと認めることは、自分たちにとっては恐ろしい苦痛だった。
 その重みに、今さらながら押しつぶされそうになる。まして、既にそれをも捨てる覚悟をつけた自分には、二重にも三重にもなって刃がつきつけられる。

 直江は、ソファに腰掛けて両膝の上に肘を乗せ、手を組んで項垂れていた。
 そこへ、長秀の呼びかけがかかったのである。

「……何だ」
「どうしても、この間のことは譲れないのか」
 彼が重たそうに頭を上げると、まっすぐに見据えてくる真摯な瞳にぶつかった。
 やはり、その話だろうな。
 直江は一人、心の中で自嘲するような笑みを浮かべた。
「譲れない」
 静かに、けれどきっぱりと宣言すると、相手の瞳が燃えた。
 直江の今の眼差しが氷ならば、対峙するのは炎。長秀はいつでも『動』の男だ。
 直江が本当は誰よりも『動』であることを、彼も知ってはいるけれど、普段は氷の沈黙にその本心を隠している男だから、その仮面を打ち砕くまでは本当の言葉は引き出せない。
 だから、攻める。
「……今の話を聞いてもか」
「そうだな」
 ともすれば深く抉られてしまいそうな心を、無理やり氷で固めて不感にする。そうでもしなければ、相手の炎の刃をまともに受け取ることなど出来はしない。できたとしても、たちまちに命を奪われてしまう。その痛みは本物だ。
 ……しかし、その態度こそが相手をより一層怒らせるのだと、彼自身もわかっていた。
「ふざけんな。真面目に答えろ。本音で答えろ!適当な相槌なんか聞きたくもねぇ!馬鹿にしてんじゃねーぞ、直江っ……!」
 長秀は、掛けた腰を半ば浮かせて、両手で膝を骨が砕けるほどに握り締めている。
 みしみしと音をたてそうな強さだ。
 跳びかかってこないのが不思議なくらい、彼は激昂している。

「すまんな。それでも俺は……譲れない」
 直江は、再び目を伏せた。
「決めてしまった。むしろ、悟ってしまった。俺の存在理由は彼と共にある。命の刻限のことではなくて、魂の存在理由が。
 公や父上のことをも越えると……俺にはわかっているんだ」

「直江ッ!!」
「やめて、長秀!」
 とうとう直江の胸倉を掴みあげた長秀を、綾子が必死になって止める。

 場の隅では、楓と千種が手出しも出来ずにはらはらしながら主たちの様子を見守っていた。
 楓は主である直江のことをよくわかっているから、その彼が一度決めてしまったことを譲ることはないと知っていてきつく唇を噛む。千種は千種で、長秀の性格も本気で怒ったときにどうするかもわかっているから、主たち二人の激しい口論に眉を寄せる。
 どちらも、主たちが互いに譲れないものを抱えてぶつかりあっていることがわかるから、手出しも口出しもできようはずがない。たとえそれがどれほど辛くとも、彼らはただ見守るしかできないのだ。

「……っ……」
 はあはあと荒い息をつきながら、直江の目の前に立ちはだかって長秀が相手を見下ろしている。右手で相手の襟首を掴み上げているのを、直江の方は無抵抗に見上げていた。
「……てめぇは……」
「長秀、お願いだから手を離してよ!あたしはあんたたちを争わせるために遣わされたんじゃあない……っ!」
 綾子が残る左手に取りすがって叫ぶのを、長秀は見向きもせずに、ただ男の瞳を睨みつけている。
 視線で人が殺せるのなら、直江の命はなかろうというほどの激しさと鋭さがそこにはある。
 事実、直江は感じるはずのない痛みを胸に感じていた。
 氷の壁は、やはりこの男相手には通用しないらしい。もう、溶けかかっているのだ。
 直江は、ゆっくりと口を開いた。
「……お前の言いたいことはわかっている。俺だって、第三者として俺を見れば、どんなにかその無責任さを罵るだろう。 直江の家の当主でありながら、それをも越える別の存在意義を見つけてそれに殉じようとなど!」
「だったら!」
 長秀の瞳が一層燃え立ち、直江の首を締め付ける力が倍以上に跳ね上がる。
「……う、ぐっ……」
 直江は苦悶に晒されながらも、切れ切れに訴え続けた。
「それは……第、三者だったら、の……話だ……俺は俺だから、どんなに哂われようとも、罵倒されようとも、泣かれようとも……これだけは、譲れ……ない……!他の誰もあの人を守れない……俺だけが、あの人を守る。何があっても、俺はそれをやめない……!」
「こ、ンの!愚か者ォ……ッ!!」
「ぐうッ」
 長秀が、胸倉を掴んだまま相手を力任せに引き摺り上げた。
「やめてぇぇ!!」
 綾子が泣いて止めても、もはや届いてはいない。
 長秀は無理やり自分と同じ高さまで持ってきた顔に額をぶつけんばかりの勢いでまくし立てた。
「たかが一個人のために、全ての民の未来を捨てて逃げようというのか、お前は!世界を一つ滅ぼしても、罪科を忘れて見捨てようというのか!?何を血迷う……!何のために生きてきた !? 何のために生かされた !? どうして公や父上が命を捨てたんだ!俺たちを生かしたのは何のためだぁぁ……っ!?」
 帝王家の両翼の一端として生まれ育ってきた根底からの自覚を、彼はもう一人の同位者に説く。
 がくがくと揺さぶりながら、殆ど絶叫するようにしてぶつけてゆく。
「やめて、やめて、やめてぇぇ―――っ!!」
 とうとう綾子が長秀を羽交い絞めにして引き剥がした。
「離せ、晴家!!」
 暴れる長秀を、渾身の力で押さえつけて綾子は絶叫する。
「どうしてあんたたちそんなにしてまで傷つけあうのよ !? 誰も何もしてないのに!裏切りも何も、いつ直江があたしたちを捨てたっていうのよ!?―――まだ、何も始まってないのに……っ!!どうして結論を急ぐのよォォッ!!」
「綾子……」
 解放された直江が、どこか呆然として彼女を見ている。
 綾子はそのまま続けた。

「直江が、いつ裏切ったのよ……あの子を守りたいってそう言っただけじゃない。それがどうして裏切りになるのよ。
 誰もあの子をそんな風に守ろうとはしなかったんでしょ。たった一人、直江だけが味方についたんでしょ。
 それのどこがいけないのよっ」
 綾子は長秀の体を反転させて襟元を掴んだ。
「てめぇ!」
 その手をさらに上から掴む長秀に、綾子は鋭く詰め寄る。
「長秀あんたのしてることはただの嫉妬だわ!直江の最優先事項が自分たち仲間でなくなったことがショックなのよ。それだけなのよ。今はまだ、たったそれだけのことなのよ?」
「何言ってやがる !? こいつは負うべき責任を捨てると言ったんだぞ!何百年と受け継がれてきた責任と立場を捨てると言ったんだぞ!死んだものの重みを……っ」
 唇を噛む長秀に、
「捨ててない!!」
 綾子が語尾に重なるようにして叫んだ。

「直江は捨ててない!まだ捨ててないわよ……いつ捨てたっていうのよ?
 直江だってどんなに痛いか!あんたと同じくらいには痛いのよ!あたしと同じくらいには痛いのよ。こんな顔して、ほんとはどれだけ心の中で葛藤してるか、他の誰よりもあんたが一番よく知ってるはずでしょ……!」

「綾子……お前は」
 直江が呆然として口を開く。
 呼ばれた方はそちらを向いて、涙に濡れた瞳で肯いた。

「直江、今はまだ、あんたを責める理由はないわ。
 もしいずれ本当にあんたがあたしたちを捨てることになったら、そのときは容赦しない。ただあたしたちから逃げるようなことだけは、絶対に許さない。そんなことになったなら、いっそ殺すわよ。
 でも、他にどうしようもない状態で、あの子に誰も守り手がいないからあんたが連れて逃げるのなら、そのときは全力でぶつかり合うわ。そのときこそ、本音で戦うときよ」
 彼女の瞳は、柿崎を負う者のそれでもあり、直江の長きの友のそれでもあり、そして母親のような慈愛をも含んでいた。
 直江が、静かに目を伏せた。閉じた瞼から、音もなく一筋の雫が伝い落ちる。
 それが、彼なりの精一杯の言葉だった。
 綾子はそれを見て、微笑んだ。
「お前っ……」
 そして、まだ何か言いたげな様子の長秀をきつく抱きしめる。
 首に両腕を回して、体をぶつけるようにして言い聞かせる。
「知ってるわよ。あんたがどんなに苦しんでいるかってことぐらい!直江と連絡が取れなかった間、どんなに悶々としてたか、わかるわよ。あのとき国に残っていたのはあんただけだったんだから。あんただけがその惨状を目の当たりにしたのよ。たった一人で国の重みを背負うと覚悟せざるを得なかったんでしょう。
 だから、再会した直江に自分よりも大事なものができていて腹が立つのもわかるわよ。自分一人負うべき重みを捨てて逃げるのかと怒るのも、当然よ」
「……綾子」
「でもね、どうしてそこで誰かを頼ろうとしなかったのよ。あたしを呼んでくれなかったのよ。
 ここにいるのよ?気づいてくれなかったのはどうしてよ?あたしだって、あたしだって……怖かったのよ……っ」
「綾子、お前……」
「あんたは一人じゃない。あたしも一人じゃない。あんたを慕う部下だっている。
 ―――どうして一人きりで苦しむのよ……!?」

 それが、ようやくこぼれた彼女の本音だった。
 長秀と直江の争いが、彼女には痛くてたまらなかったのだ。裏切るの裏切らないの、決まりもしない未来のことを言い 争って現実に皆がここにいるということを忘れている二人の諍いが、彼女を泣かせる。

「あんたたちだけが苦しいわけじゃない!あたしも皆もここにいるのに!それを忘れるなんてどうかしてるわよ!あたしたちはそんなにも小さな存在でしかないっていうの?」

「一人きりで苦しんで……馬鹿よ、あんたたち……」

 場の隅で、二人の部下が唇を噛み締めて熱いものを堪えている。
 これこそ、彼らの言いたかったことだった。
 たった一人で全てを背負おうと自ら満身創痍となる主人たちに、どうして我々の存在を忘れておられるのですかと、言いたかったのだ。
 どんなにか、そう言いたかったことだろう。

「綾子……」
 長秀が、ようやく炎の気配を収めた。
 そうして、しゃくり上げるように泣いている綾子を、抱き返す。
「悪かった……」
 背中を撫でて、呟くように何度も謝り、彼はずっと長い間、かけがえのない旧友を抱きしめていた―――


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