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そして、月のなくなった夜

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ACT1.5


 さああ・・・
 勢いよく流れ落ちるシャワーの雫が、浴室に湯気を充満させる。
 湯滴が体を叩く。
 頭の先から踵まで、湯の流れ落ちるにまかせて、オレはただ立っていた。
 流れてきた湯滴が額を伝い、鼻先から丸い雫をなして落ちてゆく。
 頬を流れ落ちたものはあるいは唇の先から、または顎の端から、ぽとりぽとりと落下する。
 オレは目の前の壁に右手をついて、首を垂れた。

 左手首を返して、小さな咬み痕を見つめる。
 何であんなことをしたのか・・・自分でもよくわかっていない。
 ただ、あれがオレのものだと――流れる血潮のうねりが全てオレのもとにあるのだと、そう思ったら確認したくなった。
 そして、抵抗はなかった。直江の皮膚はオレの牙をすんなり受け付けたし、あふれてきた血は甘くてオレの舌を拒否しなかった。
 そういえば、と思い出す。
 獣は自分の所有にその証として、牙を立てて傷を刻むという。
 なるほど、そういう衝動だったのだ。
 直江の手首に残る痕。
 オレの手首にこうして残っている傷。
 ゆっくり浮かんでくる、笑み。
 歪んだ満足感が、オレを包んだ。
 ――オレのものだ・・・

 一ヶ月前、オレは魔界奪還の戦いから離脱した。直江一人を巻き込んで。
 以来、適当な土地を転々としながら二人で逃げて、今はここに落ち着いている。
 直江は初めて出逢ったときに『すぐに迎えにきます』と言い、次に逢ったときにオレを連れて行った。
 そのときの誓い。
――『私』は『あなた』についてゆきます
上杉の血も最早どうでもいい
大将であろうとなかろうと、あなたの背を護ってついてゆくから、あなたは自分の思うままに生きてください――

 オレは、それにつけこんだ。
 大将としての重責に耐えられなかった、とかいうことではなくて、オレはただ、お前を見ていたかったから・・・。
 そして、戦線離脱したのだ。
 直江は、ついてきた。何もかも捨てて、オレについてきた。
 オレは、それを見たかったんだ。
 この男が、オレのために、どこまで堕ちて来れるか――――
 どこまで、オレを求められるか・・・

 何も、直江の苦しむさまが見たかったわけじゃない。
 愛した土地を捨てて、家族の亡骸を捨てて、そして生きている仲間たちをも捨てて・・・
 それが茨の道だということはもちろんわかっていた。
 半端な苦しみでないことも、知っていた。
 けれど、オレはそれに苦しむさまを見たかったわけじゃない。直江を苦しめるのが望みだったわけじゃない。
 オレが得たかったのは、確証。
 そこまで苦しんででも、直江はオレを取るのだ、と――――。
 そのために、ただそれだけのために、オレはこの男を巻き込んで逃げたのだ。

 オレの中に潜んでいた、そんな狂気。

 お前はこんなオレに気づいている?
 気づいていながら側にいるのか?  それとも、――――

――――何を思っている・・・?

 オレにはわからない。
 この男はなぜオレを取るんだろう。
 元の主筋だからではないはずだ。既にオレは大将という義務を捨てている。最早、上杉宗家を名乗る資格はない。
 では一体、なぜ。
 どうして直江はオレを取った?
 あの男の言葉にも行動にも嘘はない。オレに告げたとおりに、それ以上に、オレを護っている。それを疑うつもりはない。
 けれど、――いや、だ か ら わからないんだ。
 一体何が、あの男にそこまでさせるのか・・・。
 『理由』が欲しかった。
 確かな理由を、見せてほしかった。

 お前は気づいているか?
 オレはお前を自分だけのもとに囚えておきたかった。絡めとってやろうとしていた。
 ―――― それなのに。
 見ろ、このざまを。
 オレは今や、お前に囚えられてしまっている。
 お前は一体なぜここまでオレにつくすのか、どうして全てを捨ててまでオレについたのか、本当は何を思っているのか・・・・・・
 オレはそんなことで頭がどうにかなりそうだ。
 とんだ計算違いじゃないか。どうしてオレの方がここまで乱されなきゃならない?
 さっきだって、そうだ。
 あんな風に近づいたのは初めてだっていうのに、あの男はオレには予想もできなかったような表情を返した。
 キスに驚いたというよりは、あの赤い血に何かを思ったらしかった。
 一体何なんだ。
 あの不思議な揺らぎ・・・あそこに『理由』が見えるような気がしたのは、勘違いだろうか。
 何か、狂おしいような光が揺らめいたように感じたのは、気のせいか・・・


 オレはこのとき、まだ不安におびえていた。
 直江が何の代償も求めずにオレを護ってくれることに疑念を抱いていながら、自分が何かに利用されているのではないのかと思うことは身を切られるほどにつらくて・・・。
 きっと何か理由があるはずなんだ、そうでなきゃおかしい、と当然のように刷り込まれてきた心の中では思っているくせに、もし直江が自分に何か利用価値を見出しているのだったらと思うと、どうしても耐えられなかった。

 それが、いけなかった――――

 オレがもっと強かったら、ちゃんと直江に問えたら、あんなことにはならなかったろう・・・・・・

 聞けば、よかった。


「・・・・・・」
 オレはシャワーの栓をきゅっと閉めて、濡れて重たくなった髪を振った。
 もう一度、手首の傷を見つめて、そこに口づける。
「・・・聞くのが、恐いんだ――直江、もう少し、迷わせてくれ・・・もう少ししたら、きっと勇気を出すから・・・」
 今だけは、このままでいてくれ。
 今しばらくの間は・・・。


 大切なそのことを先送りにしようとしたことで、あとで死ぬほど後悔することになるということを、オレはまだ、知っていなかった――――


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