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いやな予感はしていた。
一人で出歩くなと言われていたこともあるし、それにこれまで一度も接触がなかったことが不気味だった。
そろそろ何かあるかもしれないという、漠然とした不安は確かにあった気がする。
高耶は人気のない路を足早に歩いていた。
譲の家までは母親に言ったとおり、五分ほどで到着できる。たかが500mの距離なのだが、十月も半ばを過ぎた今は、少し歩くだけでもその寒さが耳にくる。手は両のポケットに入れているが、薄いジャケットを羽織ってジーパンという姿は肌寒かった。
歩いている限りは暖かいのだが、ひとたび足を止めると一瞬の間の後に冷えた空気が身を抱く。
高耶はふと足を止めて空を見上げた。
寒々とした暗い夜に、ぽつんぽつんと白い光が点在する。松本の空は空気がきれいで星がよく見えるのだ。
高耶はこれが好きだった。
悪い仲間とつるんでいたころも、時々こうして空を見上げたものだ。
見上げても手を伸ばしても届かないところに光る星たちだが、その冴えた光が自分を清めてくれるような気がして彼はよくそれに身をさらした。
今ではわざわざそんな風に夜の空に自らをさらす理由もなかったので、しばらくご無沙汰になっていた光だ。
それにふと気を取られたのも、何かの知らせだったかもしれない。
「―――?」
ふいに、人影のなかったはずの道に自分以外の誰かの気配を感じ、高耶は後ろを振り返った。
そして、視界に捉えた黒い影に、その瞳が鋭く研ぎ澄まされる。
見るからに屈強そうではないが、単なる通行人でないことは明白だった。
醸し出す暗い雰囲気がそれを語る。
「……誰だ」
直江のいないときに限って一人歩きをしてしまった自分を少し後悔しながら、彼は誰何の声を上げた。
いざとなったら大声で助けを呼ぶしかない。
ここは住宅街の真ん中だから、誰かが気づいてくれるはずだと思えるのが幸いだった。
高耶の声は、静かな住宅街の道には意外にはっきりと響きわたった。
むしろ声を発した彼自身が少し驚いたくらいである。
相手は、ゆっくりとこちらへ歩いて来ながら、にやりと笑んだ様子だった。
動作には、せせこましさを無理やり貫禄で誤魔化したような、不自然な悠然さがある。
やせぎすの、中年の男。近づく足音、その足の運び。
忘れたくても忘れられない、その仕草―――
「……父親の顔を見忘れるとは、たいした息子だな」
―――悪夢が、一気に甦った。
体中の血がさあっと音をたてて引き、頭が真っ白になる。
動けない体の中で、脈動だけが奇妙にうるさく鐘を打っていた。
足は石のように固く地面に縫いとめられ、逃げ出す気力も浮かばない。
喉がカラカラに渇いて声を出すどころか息もできない……
フラッシュバック―――だ。
大きな体で押さえつけられ、殴りつけられ、腕を折られ。
鬼気迫るその顔を間近に見させられ。
逃げられなかった、逃げたくてもどうしようもなかった。
ただ、受け止めるしかなかった、あの最悪の状態を。
馬乗りに首を絞められて意識が薄れてゆくあの感覚。
思い出しただけで息ができなくなる。
―――苦しい……!
自分がこんなにも深刻なトラウマを作っていたなんて、いっそ驚くほどだ。
この男が目の前にいる。誰にも拘束されぬ自由な状態で、目の前にいる。
声を掛けられている。
手を伸ばせば簡単につかまってしまうであろう、この距離。
ただそれだけで、
―――怖い。
怖いこわいこわい……―――!
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