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何だか顔を合わせづらかった。
啖呵をきっておいて、今さら礼なんて。
けれど、義理は果たしておかないと、後味が悪い。

自分をそんな風に誤魔化して、高耶は下足箱の並ぶ一階のホールに下りていった。



「……仰木くん」
教員用の下足箱まで来て簾の子の上にスリッパを並べたところで、足音に気づいて振り返った。
見れば、そこには頬の傷も新しい、昨夜の少年が立っている。
彼は、きまり悪そうに視線を彷徨わせながら、ぽつりと呟いた。
「……オハヨウ、ゴザイマス」
「―――本当に早いですね。君はたしか、遅刻常習犯じゃなかったでしたっけ?」
怒っているようなつっけんどんな物言いが、落ち着かなげな物腰と相まって、何だか微笑ましい。
思わずからかうようなことを言ってしまったが、相手は少し驚いたように顔を上げると、印象的な黒い瞳でこちらをまっすぐに見てきた。

言われた内容は、いつもなら自分の神経を逆なでするに違いなかったが、相手がふざけるような軽い口調を使ったのが珍しくて、腹は立たなかった。
この教師のこんな砕けた雰囲気は初めて見たのだ。不快ではなかった。むしろ新鮮で、少し驚いてしまった。
「悪かったな。今日は夜明け前からここにいるんだよ」
思わず視線を上げたところで、うっかり男とまともに目を合わせてしまい、何だか困ってしまう。
友好的な態度のこの男の瞳は、とても綺麗な鳶色をしていた。
澄んだ目は、まっすぐに見つめられると、まるで心の底まで見透かされてしまいそうで、怖くなった。

「夜明け前って、まさかあれからずっとここに?」

本気で心配しているらしい声音が、耳を強く打った。
顔を上げると、想像どおりの真摯な瞳がまっすぐにこちらを見ていた。

「えっと……まぁ、そうなるかな」
困ったように躊躇う口調であやふやな肯定をする彼が、無性に可愛らしくて、直江は意外な感を抱いた。
「いけませんね。妹さんが心配したんじゃないですか。お家に一人で待たせておくなんて」
言い方は説教めいていたが、その言葉は決してこの少年を怒らせはしなかった。
「……あんたに言われなくても、わかってらぁ」
少しだけ唇を尖らせるさまが、むしろ警戒を解いた表情なのだと、直江は気づく。
これまで見せていた態度が、無理やり立てた棘だったのだと、わかった彼は、ふわり、と本人も無自覚の微笑みを浮かべた。

「……っ」
少年が息をのむ。

驚いた。
綺麗な笑顔だった。
初めて見る、本心からの笑みを、相手は刻んでいた。
自然な笑顔だった。

言葉をなくしている高耶に、直江はその微笑みを崩さぬまま、言葉を続けた。
「それで?わざわざそれを言いに下りてきてくれたんですか?他にご用は」
ぱたん、と下足箱の扉を閉じた彼に、その音で我に返った高耶が目を向ける。
「……あの、」
堅い表情の奥にあるのが、照れる気持ちなのだと気づいている直江は、辛抱強く相手の言葉を待った。
「昨夜は……ありがとう」
「―――おや」
思わぬ台詞に、少しだけ目を見張る。
その表情が気に入らなかったのか、相手はむむっと眉を寄せると、
「オレだって礼くらい言えんだよ。悪かったな」
とそっぽを向いてしまった。
「お、仰木くん―――」
次の瞬間にはくるりと踵を返して立ち去ろうとする。その背に慌てた声を掛けると、
「……それから!」
視界から消える直前に彼は振り返り、声を張り上げた。
何を言うのだろう、と肯くと、一度下を向いてから、彼は再び顔を上げて、一言だけ続けた。
「美弥のぶんも、ありがとう……」


「……驚いた人だ」
じゃあな、と階段を駆け上がっていったその後姿の残像を見つめながら、直江は呟いた。
いきがったひねくれ小僧かと思いきや、実のところはあんな一面も持っている。
突っ張るのは脆いからだ。本当は笑顔が似合う人なのに。

笑ってほしい、と……ふいに直江は思った。

「ほだされたかな」
呟いて、そうではない、と否定する。
同情ではないのだ。
ただ、あの子どもにはあんな風にギラギラした目をさせたくないと思う。
勿体無いと、思ったのだ。

どうにかして、いつも先ほどのように在ってほしい―――

初めて、そんな風に誰かを思った。



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