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シアワセノジョウケン

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くしゅん

雨に打たれて冷えきった体で寒い床の上に長く突っ立っていた高耶が、子供のような可愛らしいくしゃみをしたのに対して、
直江は、はっと悔やむような顔になった。
ハリを離して空いた腕で、相手を再び抱き上げる。
「すみません……こんなところで時間を潰してしまって、冷えましたね。早く温まらなければ……」
「おい……何でまた人のこと、抱き上げてるんだよ」
一応は抗議してみる高耶だが、暴れるほどの元気はなかった。
―――これは、本格的に弱っている。
ぞっと冷たいものを背に感じた直江だが、それをきれいに隠して、普段どおりのからかうような声音で相手に答えた。
「だってあなた、歩く元気もないんでしょう?だったら私が足になりますよ。あなたの足がこれ以上冷たい床を踏むのは耐え
られません」
「……プレイボーイ」
平気な顔で、常人ならば歯が浮いているだろう台詞を返されて、ぐったりと身を任せながらも高耶は呆れたように呟いた。
「おや、俗な言葉をご存じなんですね。妖精界にもそんな言い回しがあるんですか?」
直江は楽しそうに笑う。
「……どこの世界にも、お前みたいな奴はいるんだよ。……ほんとに、呆れるぜ。あんな台詞並べ立てて……」
弱い声ながら、うんざりした響きは隠せない。
               あなた
「それはないでしょう。私ほど、恋人に忠実で誠実な男はいないと思いますけど?この世の果てまで探したってね」
直江はやっぱり楽しそうだ。
どさくさに紛れて勝手に相手を恋人扱いしているあたり、いかにもこの男らしい。
「誰が誰の恋人なんだ !? バカっ」
「おぉ、つれなきひとよ……」
少し元気のない声と、楽しそうなからかいとを交わしながら、二人は奥へ入っていった。


建物のちょうど中央に位置するらしい円形のスペースは、周りよりも一段低くなった、水浴び場のようだった。
例のモスク屋根の真下だと思われるそこは、天井が随分高く、開放的だ。
周りは例のごとく、柱がぐるりと囲んでいる。
大理石の床から一段下がった部分に、直江は高耶を下ろした。
ここの床は少しごつごつした感じだった。おそらく、水を浴びても滑ったりしないように、このような岩肌のものを選んで
あるのだろう。
さらに中央は五段階に下がって、最後は腹くらいの深さに落ち着いている。
今は空っぽだが、ここに水を張れば、泉によく似た状況が出来上がりそうだ、と思いながら高耶はそこを眺めた。
「すみませんね……普段は一人ですのであまり湯を張ることがないんですよ。もし準備ができていれば、その方がずっと
温まったんでしょうけど……」
掛けられた声に彼が振り向くと、直江は、いつのまにか虎に戻っていたハリがどうやってか器用に担いできた洗い桶を
洗い場の四方に設けられている二つの蛇口の下へ持ってゆくところだった。
長身を屈めて湯の蛇口を捻りながら、
「申し訳ないのですが、とりあえずこれで我慢していただけますか」
と続ける。
「……う、ん?」
あまり状況を把握していないまま、首を傾げる高耶である。ぼおっと相手の様子を眺めていると、直江はやがて水の栓を
捻って湯の熱さを調節し、満足した顔になってその桶を持ち上げた。深さはあまりないものの、人一人が入れる大きさの
桶に水を張ったそれを、さほど重そうな様子も見せずに運んでくるのを見ながら、高耶は
(こいつ、馬鹿力だよな……オレを運んだときも全然重そうじゃなかったしなぁ)
とぼおっと頭の片隅で考えていた。
その足元に桶を置いて、直江は
「ここへ浸かって体を温めてください。背中にも時々湯をかけてくださいね。これは座りこんでも腰までしか湯が届かない
ので」
と声をかけたが、相手は動かない。
頭が働いていないらしい。
「……しょうがありませんねぇ」
直江は呟くと、相手の前に膝を折って屈んで、緑色した薄手の衣の襟に手をかけた。前開きのそれを編み上げる形になって
いる、不思議な感触のする紐を解き始める。


                                         (19/01/02)




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