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「う、ん……」
高耶は、自分の寝言で目を覚ました。
目に入る低い天井はいつもの自室。体がだるくて動かないのが、昨晩のせいでひいた酷い風邪のせいだと思い出してうんざりした。
もう昼にはなったろうか。美弥が帰って来ていないということは、まだ昼前かもしれない。
手をやると、額の上のタオルがぬるくなりかかっていた。
ふいに、昔熱を出しては母親にこうされたことを思い出し、そして冷たいあの男の眼差しを再び思い出して、彼はたまらなく悲しくなった。
そして、……彼は涙をこぼした。
何年ぶりに流した涙だろう。それでも声もたてずにただ、流すだけ。
あまりにも悲しくて、しかもこうして一人きりで床についていると、より一層やるせなさが募る。
胸が塞がるほどつらくて、何もかもが痛くて切なくて、涙が止まらない。
声も出せないくらいきつく飲み込んでも、溢れてくる涙は止まらない。
情けなくても、みっともなくても、もう泣き続けるしかなかった。
泣いて泣いて、何もかも忘れてしまいたい……!
ス……
そうしていると、ふいに襖が開いて当の男が現れた。
「な、っ」
「……ああ、目が覚めたんですね。薬を買ってきましたよ。これで少しは楽になると思います」
目があって、男はそう言って微笑んだ。
「なおえ……」
どうして、こんな…… !?
「どうしたんですか !? 具合が悪くなりましたか、苦しいんですか!」
目じりから流れ落ちている涙に気づいて近寄ってきた男の瞳は、本気で優しかった。
額のタオルを取り払われて大きな掌が温度を量る。
その感触があまりにも優しくて、高耶はかたく歯を食いしばった。
「……んで」
その下から、押し殺したような低い声がこぼれた。
「はい?」
男は何気なく首を傾げて聞き返す。
まるで今朝とは別人のように、その瞳は穏やかで優しい。
―――何もかも、わからなくなった。
「なんで……なんで、お前がここにいるんだよ !? ―――勝手に他人ん家入んなっ……」
色々な感情がせめぎあって、まともな思考が紡げない。
めちゃくちゃな感情のままに口を開けば、そんな言葉が飛び出してしまった。
「……それはどうも、お邪魔しました」
投げつけられた言葉に見開かれた鳶色の瞳が、一瞬の間の後に悲しげに伏せられ、男は静かに立ち上がった。
高耶は叫んだことで切れた息を宥めている。
机の上に薬の箱と水の入ったコップを置くと、彼は喘鳴する高耶を振り返らずに、襖に手を掛けた。
「お大事に」
本当にそのまま出てゆきそうな男の様子に、とうとう高耶の中で何かが爆発した。
「お前……一体なんなんだよ !? 人のこと、さんざん馬鹿にしたような目で見て突き放したくせに、いきなりこんな……っ」
跳ね起きると、ぐらつく体を必死に支えて相手を睨みつける。
「わけわかんねーよっ……もぉ、何もわかんねぇ……」
語尾が涙に滲む。
直江はそれでも振り返らなかった。
襖に手を掛けたまま、深いため息をついて呟くように言ったのみ。
「私が教えてほしいくらいですよ。一体……何をとち狂ってこんな子どもに振り回されなきゃならないんでしょうね」
何かを嘲ってでもいるかのような声音に、高耶はぴくりと反応した。
子ども扱いは、耐えられない。
それが真実であるがゆえに、より一層、耐え難い。
同情なんか、まして、要らない……!
「……くそっ」
吐き捨てるように悪態をつくと、初めて男が振り返った。
声は、穏やかだった。
「あなたは子どもでしょう?拗ねて、暴れて、棘をたてて。
認めなさい。意地ばかり張っていないで認めなさい。自分はまだ誰かの庇護がひつよ……」
相手の瞳が本物の優しさをたたえていたから、高耶にはもう耐えられなかった。
同情なんか、最低だ―――
「出てけよッ!!二度と面見せんなァァッ!」
嗄れた喉が悲鳴を上げるほど吼えた。
無言のうちに襖が閉められて、高耶は強く布団に顔を押し付けた。
「う……う、っ……」
溢れてくる嗚咽が止められない。
あの目……優しいふりしてほんとは馬鹿にしてるんだ。
あのときの光り方を思い出せ。いつもいつだって。
馬鹿にしてた。そうだ、嘲ってた。
布団を破れそうなほどきつく握り締めて頭の中で叫ぶ。
残った手で床を力任せに叩いた。
何度も、何度も。
そして場所を動かしたそれが、ふと冷たいものに触れた。
「っ?」
顔を上げると、それは額を冷やすのに使っていたタオルだった。
高耶は、無言になってそれをじっと見つめた。
―――このタオル。あの男が氷水を作ってくれたのか。家事なんか、てんでしなさそうなあの手で?
氷枕だってそうだ。とっくにぬるくなってたはず。あの男が中身を取り替えてくれたんだ。
そもそも、オレは玄関で倒れてたはずだ。それを、運んでくれたのは直江なのか。
薬も、わざわざ買いに行ってくれた?
それ以前に、今の時間は学校があるはずだ。
授業は?
まさか、すっぽかして来てくれたのか?
タオルを握り締めた手が震える。
熱のせいでも、冷たさのせいでもない。
心の動きに体がついていっていないのだ。
今にも崩れそうになる心を、必死で踏みとどまろうと言い訳を探す。
そう、あの目は、あれは何なんだ。悲しいような嘲りの光は……
「あ、っ」
高耶はふいに声を上げた。
―――馬鹿にしてるのは、自分自身だったのか?
『何をとち狂ってこんな子どもに振り回されなきゃならないんでしょうね』―――
とち狂う?子どもに?オレに?
そんな……
考えてみれば、あの瞳は本気で自分を心配していた。
ここで世話を焼いてくれたあの行動だって、嘘はどこにもない。
庇護が必要だと言ったのはオレを心配してくれたから。
いつだって、直江は、オレをまっすぐに見てくれていた。
反発しても、憎まれ口を叩いても、他の人間の言うことには耳を貸さずにオレ自身を見て量ろうとしていた。
直江だけだ。
あんな風に接してきたのは。
それなのに―――オレは追い出してしまった。
たった一人、オレを理解しようと見つめてくれたあの男を、この手で追い出した。
ようやく認めた事実に、高耶は震えだす。
今まさに自分の手で壊してしまったあの優しい瞳を思って。
自ら手放したものの大きさに、打ちひしがれる。
オレはまた、失ったのか?
母親の背中、父親の背中、そして、あの男の背中……
「……ァ」
嗚咽があふれ出した。
「いやだああアアアアッ……!」
なおえ、なおえ……なおえぇぇっ……!!
高耶は、自由の利かない体にムチ打って、よろよろと立ち上がった。
「行かないで……くれよ……ッ―――戻ってきて……ぇぇ……」
ふらつく足取りで、這うようにして玄関まで歩いていった彼は、沈黙する扉を開けて、転げるように外へ出た。
「な、お……ぇ……」
いない。
あの男はもうどこにもいない……!
涙が、嗚咽が一気にこぼれた。
どこまで行った。
下まで下りれば追いつくか。
道路を走ってゆけば追いつけるのか。
あの夢のように、遠ざかる背中を追っていればいつか誰かが抱きしめてくれるのか……
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