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飛刻 ひしょうのとき

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覚えているのは、まだ小さな小さな自分を抱きしめ、頬擦りする女のこと。

考えるまでもなく、それは母親の姿だろう。
だろう、と言うのは、物心ついて会ったころには、あの女の髪はすっかり白くなっていたからだ。まだ若かったのだけれど。

自分の母親は、橘の家の蔵で見た肖像によれば、日本的な特徴をすべて兼ね備えた美女だった。
東洋人特有のきめ細かな肌に、まさに黒檀のような髪。
顔立ちも整っていた。
長い漆黒の睫毛に縁取られた大きなくっきりとした黒い瞳に、優しい柔らかな線を描く鼻梁、唇は花びらのようにしっとりと紅い。
聞いたところでは、その母親(自分の祖母にあたる)が大変に美しい人だったのだという。その人によく似ていたのだ。
櫻子―――というのが母親の名だった―――は、遅くに思いがけず授かった娘であったために、老父にこれ以上はないというほど可愛がられていたという。
屋敷の外へも出されぬほどの箱入り娘だった櫻子が道を踏み外したのは、十五のとき。
父の主催した夜会の席で、独逸から来たという男に出会ったのがすべての始まりだった。

男は何も知らない櫻子に簡単に取り入り、たちまちその心を虜にしてしまった。
櫻子は聡明な娘だったが、箱に入れられていた分だけまだまだ初心で、世間ずれした男の前には丸裸の雛鳥同然だったのだ。

結婚しようという男の言葉をそのまま受け止めて、櫻子はそれを父親に告げた。
父親の怒りようは想像に難くない。
掌中の玉と可愛がっていた娘を弄ばれ、彼は怒り狂って現役時代の愛刀を抜き放ったという。

件の男はその現場には居合わせなかったのだが、もし居れば、間違いなく斬り殺されていたことだろう―――尤も、そうであった方が、のちのことを思えばずっと良かったに違いないが。

抜き身の刀を引っつかんだまま、今にも飛び出してゆきそうな父親を、櫻子は自分の命を懸けて留め、諦めると約束した。
そして丁寧で心のこもった別れの手紙を男宛てにしたため、父親の厳重な監視のもと、屋敷の一室に軟禁されることに従った。

―――もしもそのままですべてが終われば、たとえ暫くの間泣いて過ごしたとしても、櫻子がその後の不幸に出会うことはなかったろう。
いつか父親の正しさに気づく日も来たことだろう。

けれど。
男は諦めなかった。櫻子に執着していたということについては、確かに嘘ではなかったのだ。
その驚くべき行動力で男は屋敷の使用人の一部と番人、そして番犬を手懐け、櫻子を攫いにやってきた。
―――窓を登ってやってきた愛しい男の姿を目にして、ついてゆくことを拒める櫻子ではなかった。

彼らはそうして駆け落ちた。


……まったく、世間を知らない無垢な娘がいかにものぼせあがりそうな筋書きではないか。


当人たちはよかろう。
しかし、後に残される方の身を考えることはなかったのか。

―――櫻子の父親は娘の姿がなくなったのを見つけたときに心労のあまり卒中を起こし、そのまま床についた。
そしておよそ一ヶ月後、うわごとで娘の名を呼びながら息を引き取ったという。

げにも哀れは娘を盲愛して裏切られた父親であろう。


一方、親殺しの駆け落ち人たちは、田舎を転々としながら仲良くやっていた。
―――やがて櫻子が目を輝かせながら、身ごもったことを告げるまでは。

男はそのときになってようやく、目が覚めたのだろう。
あれよという間に子どもが生まれ、その厄介な二つの荷物の重みに耐え切れなくなった男は、赤ん坊がまだ首も座らないうちに、二人を捨てることにした。
本国に帰る、と男は女に告げた。向こうには帰りを待っている者たちもいるから、と。露骨に妻子の存在を匂わせて。

櫻子は信じなかった。
お戯れを、と微笑んで相手の腕にそっと身を寄せ、譲らない。
ほんのひとかけらの不信も、そこにはない。正気なら当然あるはずの、微かな疑念すら全く見られない。
おかしかった。
男はいよいよ怖れをなし、ついにある夜、黙って姿を消した。

櫻子はそれでも微笑んでいた。
もうすぐ帰っていらっしゃるわ、と子どもに話しかけ、歌を歌い……
食事も睡眠も一切を忘れ、ただ、永遠にこない『もうすぐ』を待つのだ。
一週間の後、男が本国へ帰ったという情報を得た橘の現当主が手の者を向かわせたときには、櫻子はすっかりやつれきり、髪を真っ白にして、ぐったりした赤ん坊を抱いたまま寝台に腰掛けている状態だったという。

子ども―――つまり自分は、栄養を与えられるとすぐに元気になったが、櫻子には変化はなかった。
医師たちは躍起になって女を正気に返らせようとしたが、すべてが無駄に終わったのみだった。
櫻子の中には、『夫はすぐに帰ってくる』という意識しか存在していないのだ。
そのほかには何ら異状はないのに、その一点においてだけ、彼女には現実を理解することができなくなっていた。

兄当主は医師と相談の上、彼女をそのままにしておくことにした。
彼らは病院の離れにひっそりと部屋を与えてやり、彼女の世界を保たせてやったのだ。周りの世話をする者たちの誰もが彼女の世界に話を合わせ、その精神の安定に努めていた。

子どもは彼女の手から離され、橘の家に引き取られた。
そして物心ついてから、初めて母親との対面を許されたのだった。


怖かった。



020510


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