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飛刻 ひしょうのとき

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 幼いころから、自分は独りだった。

 周りに人がいないというわけではなく、一応親戚とは共に暮らしていたし、そもそも家が名家であったために人の出入りは多かった。
 使用人も何人もいた。
 けれど、その意味で『一人』だったほうがどれだけ楽だったろう。
 孤島にたった一人で置かれたならば、目にするものは動物だけだった。例え自然に負けて命を落としたところで、それは大したことではなかったろう。自らの力が、自然を生き抜くには足らなかったというだけのことだ。
 それは一対一の均衡、強いて言うなら戦いだ。
 それに敗れるなら、自らの無力を悲しむことはあっても、悔やむものはない。
 何もできないと感じることはない。
 見えないものを見ようと足掻くことはない。
 見るべきものを見られずに自ら嘲ることもない。
 周りを取り巻く人間たちの蔑みの目をやりすごすすべを身につけることはないのだ。



 ―――ずっと、幼いころから自分はこうだった。

 広い部屋を与えられ、専属の使用人と名のある学者をつけられ、何不自由ない暮らしを保証されていた。少なくとも、物質的には。
 時代柄、軍部に深いつながりを持ち、幹部クラスの軍人を幾人も輩出してきたこの家は、平均的な一般家庭とは比べ物にならない規模の生活水準を保っている。
 現在の家長は文人だが、先代は陸軍で中将までを勤め上げた筋金入りの軍人で、地元はおろか、広く全国規模でその名を知られていた。
 それは彼が先の戦争で、膠着状態だった戦況に火をつけ、全面勝利への先駆けとなった名高い華一号作戦の立役者だったからである。

 ともかくも、自分は、全国にそれと知られた橘の家の一員として暮らしてきたのだった。
 家には家長である現当主一家つまりその妻、三人の息子と二人の娘が住まい、そして、もう一人、当主の実妹の息子がいた。
 それが、自分だ。

 父はない。
 昔はその意味がよくわかっていなかった。
 ただ、自分を取り巻く人間たちの目が普通と違うこと、自分の茶色い髪と瞳がその所以であるということだけは、おぼろげながら、ずいぶん早い時期から気づいていた。
 ……知ったからといって、理解できたわけではなかったが。

 やがて、五歳にもなれば、その意味の殆どが知れた。
 自分がどこかろくでもない異国人の落とし子なのだということ。
 滅多に姿を見せない母親が、実は精神を病んで隔離されているのだということを。
 現当主が情けをかけて、捨てられた自分たち母子を引き取らなければ、おそらく野たれ死んでいたことだろう。

 自分の父親である男は、母親をだまして駆け落ち同然に家を出、そして―――容易に想像できた結末だが―――何年もしないうちに女を捨てた。
 男は本国へ帰ったが、そこには妻も子もあったという。
 女は、捨てられたという事実を受け入れられず、自らを狂わせることで心を守った。
 男が本国へ帰ったという情報を手にした伯父が密かに部下を差し向けてきたとき、母親は赤ん坊を抱いてゆっくり揺すりながら、調子の外れた声で歌を歌い続けていたという。
 母親は―――今となっては大した意味もないことだが―――長い艶やかな黒髪をした美しい女だったそうだ。
 しかし、隔離病棟へ入れられた彼女は、骨と皮ばかりに痩せこけ、ぬばたまと称された黒髪もすっかり真っ白になって、老婆の如くなっていたという。
 橘の名を穢した女でありながら、人並みの扱いを(本人にはどうせ何も理解できてはいないのだからどちらでも同じといえば同じだが)受けることができたのは、その兄が哀れと思ったからだ。
 少なくとも物質的には全く不自由なく、彼女は生きられたと思う。
 ―――結局のところ、引き取ったのも病院へ入れたのも、外聞を憚ってのことでしかないだろうと自分は思っているが。

 そして、自分は当主一家の中に独りぽつんと紛れ込んでいた。
 毎日の食事の席には一員としてつくことが許されていたが、従兄弟たちと自分との間に何か決定的な境があることは、ほんの小さなころからはっきりと悟っていた。一緒に遊んだり、父親の膝の上に乗って甘えることができないのも、わかっていた。

 だから、何も、しなかった。
 望まなかった。

 すぐに、それは明らかになった。
 やがて、聞こえよがしな使用人たちのひそひそ話の意味が、幼いなりにわかってきたのだった。
 たぶん彼らは、自分がその話の大半を聞き取ってなおかつ理解しているということには、気づいていなかったのだろう。
 子どもにはわかるまい、という意識からだけだったのかそれとも、聞かれても構うものかという蔑みの気持ちがあったからだったのかは、定かではないが。

 自分は鏡を覗くたびに思い出したものだ。


 あの声……


『あれ、見てごらん。あの子だよ』
『あぁ、本当。すぐにわかるねぇ、あの茶色い頭』
『全くだね。  ここのお邸の方たちはみんなカラスみたいなきれいな黒髪をしているっていうのに、あの子ときたら』
『そうそう。変に白いし、あの目の色!何を考えてるかわからない、気味の悪い色だよ』
『やっぱりろくでもない異国人の種だからね』 ―――


 鏡の向こうから男の子がこちらを見ている。
 手を伸ばして、冷たい硝子面に触れてみる。
 じっと見つめれば、底のない鳶色の瞳がこちらを見返す。
 生白くて人形じみた顔立ち、柔らかい茶色の髪……

 見れば見るほど、周りの人間たちとは違っていた。
 それが悲しくて、涙が出そうになる。

 それなのに、

 ―――鏡の中の顔は笑っているのだ。おかしそうに。

けれど決して明るい笑顔ではなく。

『気味の悪い子ども』がそこにいた。



それが自分の幼いころだった。




020503


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