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心配していたように逆上せてしまったり溺れたりということはなく、高耶はのんびりと手足を伸ばして湯の温もりを楽しんだ。
「お先に。すっかりあったかくなったぜ」
あまり長く占領してしまうのも悪い、と適度なところで切り上げると、直江はソファに掛けてテレビを見ていた。声を掛けられて彼は顔をそちらへ向ける。
ホテル備え付けのゆったりとしたバスローブの襟元をきちんと締めた青年の姿に微笑ましさを覚えながら口を開いた。
「おや、もっとゆっくりしてくださってよかったんですよ。ちゃんと芯までぬくもれましたか」
部屋の入り口に続くのがリビングのような空間で、そこにソファセットとコーヒーテーブル、そしてソファの正面にあたる壁に作り付けのオーディオスペースがある。
直江は、その優に三人は腰掛けることができるであろう大きさのキャメル革のソファにゆったりと納まって、シャツ姿で寛いでいた。
「もう充分。……何見てるのかと思ったら、英語放送じゃねーか」
頭の上にかぶったバスタオルでがしゃがしゃと髪を拭きながらそちらへ近づくと、高耶はテレビの画面を見てげっと首をすくめた。
直江がその反応にくすりと笑いながら答える。
「BBCです。このホテルは何がいいと言って、こういう細かなところが私好みなんですよね」
目じりの笑くぼがやっぱり可愛くて、高耶はつられるように笑った。
「変わったところに評価ポイントがあるんだな、直江って」
ホテル独特の、大きくて丈夫なバスタオルを頭からかぶった高耶は、その白い布の間から笑い声をたてている。
半分だけ覗いた黒い瞳に見入りながら、直江は腰掛けたソファの傍らをぽんと叩いた。
「そうかもしれませんね。お客さん方にも色々な女性がおりますから」
ここへどうぞと目線で告げる。
意図を察して、高耶はすとんと直江の隣に腰掛けた。
「へえ。けっこう色々な勉強が必要だって聞くけど、ほんと?」
「ええ、まあ。客層によっても変わりますが、夕方のあの女性なんかも普通の人間とは違う世界の生き物なんですよ?」
首を傾げながら悪戯っぽく笑った直江に、相手も首の角度を傾ける。
「いわゆるお嬢様ってやつ?」
「まあそういうことになりますね。間違っても箱入りタイプではありませんが。
―――性格はさておき、そういう世界の面々を相手にしようと思うとね、どうしてもある程度は知識を磨かなければやっていけないんです」
少しだけため息にも似た呟きがこぼれて、そんな男に青年は軽い驚きをおぼえる。
「へえ……大変なんだな」
思ってもみなかった話に、少し目を見張って呟いた彼に、直江は微笑を戻して肯いた。
「意外でしょう?楽して儲けられる商売どころか、永遠の学生のようなものなんですよ。常に学び続け、磨き続ける」
茶目っ気を含んだ言い回しだったが、言葉はいたって真面目である。
「学生、ね……。それにしてもハイグレードな勉強だ」
「いいえ、真面目な学問分野だけではないんです。人間の心理を熟知するという意味ではカウンセラーのようなものとも言えますし、他にも現在の時流を把握してそれに乗ってゆくために様々な雑学が要ります。
……まあ、卑近な例で言うと、デートコースなんかも常に新しいものを開拓したりとかね」
今度の微笑みは苦笑に似ていた。
「ははぁ。すごいんだな」
膝の上に肘をついて話に聞き入っていた高耶が、髪を拭うのも忘れて唸っている。
その様子を微笑ましげに見やった直江は、手を伸ばしてバスタオルを取り上げた。
「んっ?」
驚いた猫のようにくるりと体の向きを変えて見上げてきた青年に、直江は優しい瞳を返す。
「拭いてあげます」
言われて青年は戸惑った。
「え、いいよそんな。大体直江、風呂入るんじゃなかったのか?冷めちまうぜ」
「いいから」
楽しげに相手の頭をがしゃがしゃ拭いている直江は、高耶からは見えなかったが、非常に珍しいほど和んだ表情をしていた。
「……なんか、ほんとに色々世話かけてるな」
美容師の資格でも持っているのかと疑ってしまうほど上手に頭皮を刺激され、その気持ちよさに目を閉じたまま高耶が小さく言った。
厚いタオルでわしゃわしゃと青年の頭を撫でている相手は、布越しに交わす言葉を楽しんでいる。
「私は楽しいですよ。久しぶりにリラックスできています。仕事抜きで誰かとこんな風に過ごすことは滅多にありませんから」
そう言うと、相手は声の調子を変えた。
タオルの下で、その頭がこちらを見上げたのがわかる。
「仕事漬けなのか?……あんまり無理しない方がいいぜ。今は大丈夫でも、そのうち一気に具合を悪くするかもしれない。 体は大事にしなきゃ」
まるで長年の友人を心配するかのような親身な言い方が、素直に直江の心の中に入ってきた。
彼は青年が好きだと言ったあの笑くぼを浮かべ、青年の頭を撫でるようにした。
「ご心配ありがとうございます。……あなたは優しいんですね」
言葉の後半は、嘆息にも似た優しさを帯びていた。
「はっ?いや、そんなことねーって。心配性なのはガキ相手の感覚に慣れてるせいだろ」
青年は戸惑ったように首を振って否定するが、直江は続ける。
「照れなくていい。あなたの美点の一つなんです。素直に自信を持っていいんですよ」
「美点ねぇ」
疑わしそうに呟いた青年に、畳み掛けるように言葉を続けた。
「そうですよ。初対面の人間の健康にまで気くばりのできる人なんてなかなかいません」
それは実感が生んだ言葉だから、紛うことのない本当の賞賛を含んでいる。
そのことに気づいて、くすぐったそうに青年は肩をすくめた。
「そんな立派なものじゃないって……」
きっと少しだけ赤くなっているのだろう。直江は思って微笑みを深くした。
「謙虚なんですね。―――また一つ美点を発見」
心の中にメモを取るかのような言い方に、高耶は深いため息で応えた。
「直江……楽しんでるだろ」
相手のほうは動じない。タオルの上からの動きをそのままに、肯いた。
「最初から言っているでしょう?私はあなたと話しているととても楽しいんですよ」
おとなしく髪を拭われながら、青年も肯く。
「そっか。オレも直江と話してて面白いぜ。いい意味で予想を裏切られてばっかりだ」
「それはよかった」
直江はバスタオルをようやく相手の頭の上から取り去り、湿った艶のある黒髪を梳くようにした。
「綺麗な髪ですね。まっすぐで、くせがなくて」
「男の髪に綺麗とか言うなよ……仕事気分が抜けてないんだろ」
感心するように、褒めるような言葉を紡いだ彼に、相手は呆れたような声を返す。
しかしその声はどこか呂律がおかしい。眠りに落ちる前の、あの独特な浮遊感がそこにはあった。
「何度も言っているように、今は私は橘義明ではなくて直江です。リップサービスなんかしてませんてば」
相手の眠りの前奏を邪魔しない程度に抗議しておいて、
「本気なら余計におかしいって」
うとうとしかかりながら、欠伸をかみ殺すような声で反論する高耶に直江は微笑みを浮かべた。
「素直な感想です。梳いて指が引っかからない髪なんてなかなかありませんよ」
相手は緩慢に首を振って、
「なおえの髪の毛も、触り心地、よさそう……」
ふわんとした声を最後に、とうとう瞼が閉ざされた。
髪を梳かれるうちに眠気はピークを迎えたようだ。幸せそうに和んだ顔で、高耶は寝息をたて始めていた。
「高耶さん?」
そっと肩を揺すってみても目覚める気配はない。
直江はそれこそ保父になった気分で目を細めた。
「やっぱり墜落睡眠じゃないですか」
小さく呟かれた言葉は、心底楽しそうで笑っていた。
03/01/18
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