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その優しい触れあいは数分間続いた。
唇だけで為される、とろけるように甘い愛撫には、しかし情欲はカケラも含まれていない。
物足りないほど軽く、何も考えられないほど心地よい。
ただ心が満たされてゆくような、そんな触れあいだった。
「―――これが、キス以前です」
ようやく離れたあとに、直江が笑いながらそう言った。
「……以前」
唸るように呟いた高耶に、相手は肯く。
「そう。前段階ですよ。」
「これでもまだ前段階なのかよ……うわぁ」
頭を抱えたくなった高耶である。
「まだまだ先は長い。……後は好きな人と一緒に覚えていってください」
直江は顎をとらえていた手でそっと頬を撫でると、体を離した。
「……さすがはNo.1だな……」
高耶が感心して呟いていると、ソファから立ち上がった相手は心外そうな顔をつくって悪戯な瞳を向けた。
「まだまだこんなものじゃありませんよ。……だってね、」
すい、と上半身を屈んで瞳を覗きこむ。
内緒話でもするように、彼は高耶に囁いた。
「……感じなかったでしょ?」
「か、っ…… !? 」
とんでもない台詞をさらりと掛けられて高耶はぎょっと体を後退させた。
が、すぐにソファの背もたれにぶつかり、うろたえたように相手を見上げる。
その反応にくすくすと笑って、直江は屈みこんでいた半身を元に戻し、驚かせてすみませんねと謝った。
「まあ、今は触れただけですから、何も感じなくて当然です。本気で深いことをしたら腰を抜かしたと思いますよ」
悪戯な目をしてそう言った後で、彼はしかし真剣な眼差しに返った。
「―――でもね、ただ試しでしたところで、心は動かない。技巧のある人間がやれば体は反応するかもしれませんけどね。
けれど、好きな人となら今のような触れるだけのものでも死ぬほど気持ちよくなるはずです。心が望んだものだから。
そんな感じ方のできる相手を見つけられたら、あなたにもわかります。
だから、この先は好きな人と一緒に覚えていってください」
汚れのない相手を慈しむように、男はそう真剣に語った。
自らの商売がそんな綺麗なものとはかけ離れていると誰よりもわかっているからこそ、目の前にいるこの無垢な青年には心から言ってやりたかったのだ。
浮ついたものではないたった一つのものを見つけなさいと。
お互いをお互いだけが見つめていられるような誰かを見つけなさい、と。
「……というのが、私の経験談というか年寄りじみた忠告です。心の片隅にでも置いてください」
言ってから少し自分の説教じみた言葉に苦笑して、直江はそう付け加えた。
相手は言葉を紡がずに肯いている。
直江にはわからなかったのだが、高耶は相手の台詞の内容に胸を突かれていた。
―――好きな人と……
そう言われて、ツキンと痛くなったのは心臓なのか、それとも心なのか。
高耶は少し目を伏せて、ふと考えた。
「―――どうしますか?」
ベッドに腰掛けて考え込む様子の高耶を残してしばらく奥の方へ消えていた直江が、ふと顔を覗かせて尋ねた。
「ん?どうって、何が?」
声を掛けられてようやく現実世界に意識を戻した高耶が顔を上げると、相手は開いたバスルームのドアを指しながら問うてきた。
今までごそごそしていたのは、バスの準備をしていたものらしい。そういえば水音がしていたような気もする。
「随分遅くなってしまいましたが、今日は泊まって行きますか?それとも、ご家族に心配されそう?」
ゆっくりとこちらへ歩いて来ながら、直江は少し首を傾げた。
遅くなったから泊めてやろうと思うのだが、相手にも都合があるだろうと訊ねてくれたのだ。
高耶はその優しさと気遣いに嬉しくなった。
「ああ、それなら大丈夫。オレ一人暮らしだし、心配するような人間はいねーよ」
たぶん笑顔になれたと思う。
「そうですか。それならシャワーをお先にどうぞ。眠ってしまう前に済ませないと、今にも墜落睡眠しそうですよ」
くすりと笑われて、高耶は少し憮然となった。
「ガキじゃあるまいし、そんないきなり寝たりしねーよっ」
むっと横を向くと、相手は笑いを納めて真面目に答えた。
「お酒が入っていると人間は子どもに還ります。誰だってそうですよ」
諭すように、けれどどこかフォローしてくれているように、彼は言う。
しかし彼はけろりとした顔である。同じものを飲んでもこの差は歴然なのだ。
だから、ちょっと腹が立つ。
「直江は全然酔ってねーじゃねーか」
唇を尖らせて反論すると、相手は首を振った。
「酔うほど飲まなかっただけですよ。潰れたら私も寝てしまいます」
「……想像できねぇ」
「しなくていいんです。追究しないでください。かっこよく見られたいのが男のサガですからね」
悪戯っぽく片目を瞑るさまが思いがけずお茶目で、高耶は目を見張った。
「―――さあ、どうぞ」
彼が言葉を紡ぐ前に、直江はバスルームの前から体を退けた。
「じゃあ悪いけど、先に借りるな」
ふらつく足元を何とかこらえながら、高耶はベッドから立ち上がった。
「大丈夫ですか?かなり危ないですよ、足取りが」
その様子に少し驚いた表情で、直江が駆け寄る。
「変だよな……頭はしっかりしてるのに、足にばっかりきたみたいだ」
「たぶん平衡感覚がおかしくなっているんでしょう。まあ意識がはっきりしているのはいいことです」
さ、つかまって、と肩に腕を回して支えながら、直江が言う。
「悪いな。色々手を煩わせて」
素直に体を凭れ掛けながら言うと、相手はすぐに首を振った。
「いいえ、飲ませたのは私ですから。加減を考えずに勧めてしまいましたね。すみませんでした」
「直江が謝ることじゃねーよ。オレもちょっと調子に乗りすぎたみたい」
こちらも首を振って譲らずにいると、じっと見つめられた。
しばらく睨みあった後で二人は同時に笑い出した。
「じゃあお互い様ということで」
「そうだな。……ありがと。もういいよ」
バスルームにたどり着いて、高耶は縋っていた腕を離した。
「バスタブにお湯を張りながら浸かってください。ただし、溺れないように気をつけてくださいね」
「大丈夫だって」
心配性な相手に笑って見せると、彼もふっと微笑んであの綺麗な笑いじわを浮かべた。
「じゃあ、ごゆっくり」
「うん」
直江の姿がドアの向こうに消えると、高耶は蛇口を捻った。
熱い湯がバスタブに注がれ、白い湯気が上がる。
そのもうもうとした霧の中で、彼は着衣を解いた。
03/01/07
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