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baby,baby!

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 久しぶりにぐっすりと眠って目覚めた爽快な朝、青年はしばし自分のおかれた状況をはかりかねて戸惑った。
 ここはどこだろう。自分の家ではないことは確かだ。あの床のぎしぎしいう狭いアパートと比べればここは別次元なみの心地よさだ。清潔に保たれた寝具といい、きちんとカーテンの掛かった窓といい。

 身を起こした青年は、ごく普通の大きさのその寝室をゆっくりと見回して、切なさに胸を痛めた。
 どんなに頑張っても生活水準を上げることのできない自分と、この穏やかで心地よい空間の主である誰かとのあまりの相違に。

 そんなことを考えて、ようやく青年は正気に返った。

「――― !? めい!明は…… !? 」
 自分の安アパートに共に暮らす幼い我が娘のことを思い出した彼は、視界の中にその姿が見あたらないことに飛び上がった。
 大切な、誰よりも大切なあの小さな宝物を、自分はどこへやった?
 極限状態の精神で、取り返しのつかないことを自分はしてしまったのではなかろうか。恐慌状態とも呼べた昨日までの自分は、一体何をしただろうか。
 覚えていない。
 何をした?何があった――― !? 

 ベッドから転げるようにして飛び出した青年は、唯一の救いにも似た外界への扉を開け放った。
 そこは一般にリビングダイニングと呼ばれる形式の、広い部屋だった。
「めい……ッ」
 血走った眼を左右に走らせた彼は、ソファに掛けた後ろ姿をとらえた。
 物音と叫び声に気づいて、その男は振り返る。
「ああ、目が覚めたんですね。おはようございます。よく眠れましたか?」
 青年を認めて、彼はふわりと微笑んだ。
 腕の中に何かを抱いていた彼は、それをしっかりと抱きなおしてゆっくりと立ち上がり、突っ立っている青年の方へと向かう。
「……めい……」
 男の腕の中にあるものが探していた小さな生き物であることに気づいた青年は、目を見開いて、男を見上げた。何から口にすればよいのか見当もつかず、彼は混乱した状態のまま口を僅かに開く。
「明ちゃんならこのとおり、おなかがいっぱいになって眠っていますよ。大丈夫。安心してください」
 男が青年の形相から察して紡いだ言葉は、青年の張りつめた心を一気に解き放った。
「……よかった」
 安堵のあまり足下から力が抜けて、彼はその場にへたりこんでしまう。
 驚いた男が手を伸ばしたが間に合わず、青年は床に膝を突いた。
「大丈夫ですか?貧血では……?」
 男もその場に屈み込み、片手で相手の頬を包むようにすると、ハッと息をのんだ。


 手のひらに触れるのは、熱い滴。
 人という熱い体の内側から迸る、心という炎の水。叫び。
 こらえてもこらえても決して涸れることのない熱い潮。


「大丈夫……怖がらないでいい。何も心配しなくていいから。赤ちゃんなら私が看ていますから。怖くない……もう怖くない……」
 濡れた頬をゆっくりと撫でながら、男は囁き続けた。

 青年の様子は昨日のあの尋常でない雰囲気とは異なっている。彼はたぶん本来の彼に戻っているのだ。そして、彼を悩ませ続けてきた現実を改めて認識して心が張りつめているのだろう。
 目覚めたとき赤ん坊の姿が見あたらないことに彼はきっとひどく驚き、そして不安になったのだ。頭が飽和状態になっていた間に一体何が起こったのかと。

 怖かったのだろう。

「大丈夫……もう大丈夫……何も怖いことはないんですよ……だから、落ち着いて」
 ひくひくと肩をけいれんさせている青年がいたましく、男は何度も何度も根気よく言葉を掛け続けた。


 腕の中ですやすやと眠る赤ん坊と、目の前で声もなく涙をこぼす青年。
 そして、二人を見守る自分。

 ……家族、という一つの共同体になるには十分な巡り合わせだと思った。

 自分は実の家族を愛せず一人になったけれど、決してこのがらんとした家が好きではなかった。ここにいてくれる誰かを心のどこかで待っていた。
 そして、青年とその赤ん坊は、『母親』を探していた。自分たちと共に生きてくれる誰かを。

 それが自分であってはいけないだろうか?
 おっかなびっくりで抱いた赤ん坊は、この腕で天使のように安らいでいる。自分の腕ではこの子を満たしてやれないだろうか?

 男はたった一晩のうちに自分の中の空洞をすっかり満たしてしまった二人の訪問者たちの手を、決して離すまいと思った。
 ―――やがて、青年の震えは男の手のひらの中で収束していった。

「……すみません、オレ……」
 ゆっくりと顔を上げた彼は、男の穏やかで心配そうな瞳に出会って心苦しい表情になった。

 相手の瞳は思いやりにあふれているのに、思い出せない。昨日自分は何をしたのだろう。なぜここにいるのだろう。

「昨日のことは記憶にありませんか」
 男は青年の戸惑いを瞳の色で察し、怒るでもなく静かに問うた。
「すみません……オレは何をしたんですか。何を言いました……?」
 ますますいたたまれなくなって青年の言葉尻は消え入るように弱くなる。

 男はしかしゆっくりと相手に微笑みかけた。
「一緒に暮らそうと言ってくれたんですよ、あなたは。赤ちゃん……明ちゃんでしたね、この子の親になって家族を作ろうと言った私の申し出に頷いてくれた。
 そう約束したんですよ」

 ……嘘だ。
 青年には目の前の男が自分のためにそんな優しい嘘をついてくれたのだとすぐに気づいた。

 男は優しい目をしている。とても温かで穏やかな、これまで見てきた誰よりも優しい瞳をして、自分を見ている。
 こんな事情持ちのコブ付きと、誰がわざわざ家族になろうとなんてするだろう。
 この男は優しいから、そんなことを言ってくれるのだ。きっとひどく失礼なことばかり言ったはずの自分を、まるで自分から懸命に口説き落としたような風に言ってくれるなんて。
 とんだお人好しだ……。

「思い出してくれましたか?」
 頬を撫でていた手が移動して、つむじのあたりをぽんぽんと叩いた。
「……そんなの、嘘だ。どうしてそんなに優しいことを言うんだよ。いきなり、赤ん坊付きの男に家族になってくれなんて、そんなお人好しがどこにいる?そんな優しい嘘をついたらだめだ。だめなんだ!」
 甘美な誘惑を、相手の負担を思って振り払おうとする青年は、苦しげに眉を寄せた。
「嘘じゃない。だってあなたは昨日のことを覚えていないんでしょう?それなら嘘だなんてわからない。私はあなたと明ちゃんがここにいてくれたら嬉しいんです。いてほしいんです」
 男は微笑みを動かさない。
 その瞳は心から二人を思っている。限りなく穏やかで、そして優しい。
「でも……っ」
 青年はその瞳を見上げて顔をゆがませた。

 たとえ今この男が本気でそう言っているとしても、いつか邪魔になる日がくる。いつか伴侶を得て婚姻を結ぶときがくるはず。そうなったら、自分たちは足手まといにしかならない。

 申し出自体は願ってもない話だ。男は優しく、赤ん坊も自然に懐いていることからもそれははっきりしている。そして、男は勤め人だから、生活水準は自分たちよりもずっと上だろう。ここにおいてもらえれば赤ん坊の腹を満たしてやることができるし、側について面倒を看てやることもできる。何もかも、願ってもない都合の良い話だ。
 けれど、それは男にとって一方的な負担が増えることでしかない。食い扶持が二人も増えて、しかもそれが赤ん坊を含むとなれば、経済的な負担は半端ではない。
 そんな厄介ごとを引き受ける理由など男にはあるはずもないのに。それなのにこの男はお人好しすぎて、こんなにも優しい瞳で自分たちを見守っている。

 負担は今現在のことだけではない。いずれ男にとっての伴侶が見つかったとき、自分たちのようなコブがくっついていては迷惑なことこの上ないだろう。最初から話が立ち消える可能性すらあるのだ。たとえ自分たちが出てゆくと言ったところで、気にする人間は気にするのだから。
 そんな風に負担になりたくない。自分たちに優しい手を差し伸べてくれた数少ない人に迷惑をかけたくない。

 青年のそんな渦巻く思いは、男によって一蹴された。

「私のことが嫌いでなかったら、しばらくでもいいからここにいてくれませんか。―――せめて昨日買ってきた赤ちゃんのミルクがなくなるまでの間でも」

 そんな譲歩案と共に、「ね?」と畳みかけるように微笑まれて、青年は催眠術にかかった人間のように何も考えずただこくりと頷いてしまった。

 男はぱっと顔を明るくして頷くと、
「そうとなったら明日にでも部屋を整理しないとね。
 今日はちょっと休みが取れないんですが、私が帰ってくるまで絶対にここにいてくださいね。お願いだからいなくなったりしないで」
 じっと青年を見つめて真剣な眼差しで懇願する男に、相手は一も二も無くただこくこくと頷くのみ。
 相手に掛けるであろう負担のことも、この約束が自らの境遇を一変させるであろうことも何もかもが、目の前の男の優しくて深い色をした瞳の中で溶けていった。


「―――それでは、水回りや物置のことを話しておきますね」
 かりそめではあるものの、双方がその約束を飲み込んだところで、男は青年を連れて家の中のことを簡単に説明し始めた。
 台所と洗面所を教え、湯沸かし器の場所や食品の置いてある棚まで説明を済ませると、時計に目をやった男は、そろそろ支度しないと、と呟いて赤ん坊を青年に返し、寝室へと消えた。

 しばしぼーっと立っていた青年は、ふと男がこれから会社に出かけるのだということを思い出し、彼が朝食を取っていないことに気づいた。
 彼はただずっと自分たちの面倒を看ていただけで、昨夜もろくに眠っていないのではないかと思う。

「―――めい、ちょっとここで待ってろ。オレ朝飯作ってくるから。
 いい子だからおとなしくしててくれよ」
 一瞬どうしたものかと首を傾げた彼だが、すぐに心を決めたらしく、目を覚ましてあーうーと声を発し始めた赤ん坊に話しかけながらソファに向かうと、深く沈むその手触りのいい革の上に娘をタオルケットごとそっと下ろした。
 不思議そうに父親を見上げた赤ん坊だが、満腹状態であるためか相手の手が離れてもぐずらず機嫌良くその場にじっとしている。
「よぉし、いい子だ」
 青年はそのぷくぷくした頬をそっとつつくと、身を翻してダイニングスペースへと向かった。

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