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明かりもつけない四畳半の貸し間で、一人の青年が擦り切れかかった畳の上にぺたんと座り込んでいる。
紫外線の為に変色した、薄い、申し訳程度のカーテンを透かして、落日の赤い光が彼とその目の前に置かれた小さな生き物を照らしていた。
この部屋に、家具らしいものと言っては、衣類を仕舞ってあるらしい籐のバスケットと、玩具のような簡易テーブルだけ。
窓と反対側にある流し台には、やっと一人分だけの食器と、哺乳瓶。足元に置かれたゴミ箱からは、空き箱や、栄養に悪い即席食品のプラスティック容器が覗いている。
調理台にはまな板と包丁、乾いたオレンジの皮が転がり、食器や保存食品を収納するはずの戸棚はがらんとして寒々しい。
一見して、楽ではない暮らしである。
手洗い、風呂の付いた標準的なアパートをさえ維持できなくなった人間たちがひっそりと慎ましやかに生活を営む、そんな貸し間に青年はいた。
否、青年と―――その幼い生き物とは。
古い畳の上に二つ折りにした敷布団を置き、その上に寝かされているのは、やっと首が据わったであろう頃の赤ん坊だった。( 3/19)
いっそこいつと一緒に死のうか。
……そんなことを考えた。
五月半ばのことだった。
母親のない赤ん坊とともに青年は一人、だだっ広い世界のただ中に絶望しかかっていた。
彼の瞳の先で、ただ一夜の結実は、罪のない寝顔を見せている。
母親のいない不憫さも、まだ彼女には飲み込めていないに違いない。
生まれてから四ヶ月ほど。母親とともに過ごしたのは三ヶ月だけだ。彼女は情熱のままに去り、赤ん坊だけが一人、父親のもとに残された。
赤ん坊の母親の選んだ道を責めるつもりは、父親には無い。
しかし、やはり男手一つで生まれたばかりの赤ん坊を育てようというのは、生半可なことではなかった。
―――否、端的に言えば、殆ど不可能である。
赤ん坊は一時もじっとしていてくれないし、すぐに泣き出しては新米パパを右往左往させる。
さらに、経済的にも、片親であるというのはハンディキャップが大きい。
片方が働いて片方が赤ん坊の面倒を看る、という形をとることができないのである。働こうと思ったら赤ん坊をどこかに預けなければならないし、そうかといって、働かなければ飢え死にする。
赤ん坊の祖父母が存命ならば面倒を看てくれるように頼むこともできようが、如何せん、父親も母親も孤児、天涯孤独の身の上同士だった。
そんな中で、まさにたった一人で赤ん坊を抱えて立ちつくす青年が、生きることに消極的になったとして、誰に咎めることができるだろう。
彼は、もう何日も悩み続けていた。(3/20)
あどけなく眠る幼いものを見つめながら、若い父親は憔悴と愛しさと不安と絶望とに夜を明かした。
底を尽きかかっている家計。
母無しの赤ん坊の不憫。
この世に唯一人の味方も無く、稚いものを抱えて立ち尽くす自分。
そうして追いつめられた彼は、ふつうでは考えつかないような行動に出る。
彼は翌日の夕方、繁華街の中にある人通りの多い駅の西口に赤ん坊と共に佇んでいた。
母親が必要だ。
そうでなければ、里親が。
かわいそうなこの子はそうでもなければ死んでしまうだろう。
このまま自分と二人でいたら、きっと自分がこの子を殺して自殺するだけだ。
そんなことにだけは絶対にさせない。この子には幸せになって欲しいんだ。
母親を探そう。引き取ってくれる人を探そう。
―――そう決心して、彼は人の多いこの出口のところに立っていたのだった。
母親候補を探して声をかけるために。
見ず知らずの人間に対して赤ん坊の母親になってくれと言うことがどれほど無茶でばかげているかは、理性ではわかっていても、今の彼に考慮する余裕はなかった。(3/21)
青年は腕の中の赤ん坊里親になってくれる人を探して駅の出口に佇んでいる。
どんなに無謀で破天荒な行動であるかはわかっていても、他に道は無いのだ。
けれど、さすがになかなか実行には移せず、彼は何度も足を踏みだしかけては引っ込めるという動作を繰り返していた。
これぞ、と思っても喉はからからに乾いて音を作らない。 舌は固まってしまっていて動かない。
足は根が生えたように地面に縫い止められて動けない。
彼はそうして、行動に出ることができぬまま、人待ち顔に佇む結果となった。
―――そんな姿を、少し前から見ている人間がいた。
ごく普通のサラリーマンであろう、三十代前半の男である。
彼は青年の側を一旦通り過ぎた後に、どうしてもその様子が気に掛かって足を停めていた。そうしてしばらく青年の様子を心配そうに見守っていたが、やがて向きを変え、ゆっくりと歩き始めた。
「どうしよう……明……」
青年は胸に抱いた赤ん坊を強く抱きしめて顔をその髪にうずめた。
赤ん坊特有の甘い匂いが鼻孔をくすぐって、その甘さがよりいっそう彼の空しさに拍車をかける。
かわいそうな赤ん坊。
父親も母親も若すぎて、その上母親はもういない。
まともな子育てのできる環境ではない。
そんな状況でも、赤ん坊は変わらぬきれいな瞳をして父親を見上げている。
物言わぬ唇はほころんで、小さな拳で彼にさわろうと無邪気に身を乗り出す。
あまりにも不憫で、涙が出た。
「どうしよう……」
呟いて涙をこぼしたとき、ふと目の前に人の立つ気配がした。
「あの……」
声を掛けられる前に、叫んでいた。
「こいつの……母親になってやってくれ……!!」
ずっとずっと言えずにくすぶっていたその一言を、思いきり迸らせた。
そうして言い切ってしまってからようやく顔を上げると、目の前にいたのは物腰の柔らかな男性だった。(3/23)
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