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「とりあえず掛けていてください。お茶でもいれましょう」
男は言って、抱いていた赤ん坊を青年に返した。
駅の出口で劇的な出会いを果たした二人―――もとい『三人』は、悪目立ちした場所を離れて一先ず男の家へと辿り着いている。
普通でない様子の青年と赤ん坊がどうしても気に掛かって声を掛けた男は、突然母親になってくれと叫ばれてひどく戸惑ったが、顔を上げた青年の表情を見るや、彼の手を引いて歩き出した。
このまま放っておいてはいけない。
青年の事情もわからず、ただその表情にそう感じ、彼は相手の腕の赤ん坊を抱き取って大事に抱えると、ついていらっしゃい、と青年を先導したのである。
男の家は一人で住むには広すぎるのではないかと思われるようなマンションだった。
廊下の突き当たりがリビングダイニング。十畳ほどの広さがあり、手前のコーナーがL字型のキッチンスペースになっている。
リビングの右手に並んでいる襖とドアは、寝室に続いているようだ。リビングに入る手前にもドアがあり、それも寝室の入り口だとすれば、3LDKということになる。
会社勤めの男が一人で住むにはあまりにも広すぎると思われる空間だが、彼が妻子持ちでないということは青年にはすぐに見て取れた。
まるで生活感の無い空間。
モデルハウスのようだと言えば聞こえはいいが、この家は到底『家庭』とは呼べそうにない。
houseではあっても、homeではないのだ。
もし他に誰か人間が―――例えば妻が―――いれば、彼女がどんなに綺麗好きで掃除好きだとしても、これほどがらんとした空間にはならないだろう。人が居るということ自体が、必ずその空間に生活感を与えるはずだから。
まるで人間の気配のしない殺風景な部屋を見回して、青年は何だか悲しくなった。
しかし、胸を痛める時間もなく腕の中の赤ん坊が盛大に泣き出して、彼は一先ずその気持ちをどこかへやることになった。(3/25)
「おなかが空いたんでしょうか」
青年が泣き出した赤ん坊を揺すぶってあやしていると、湯気をたてるポットを持って、男がキッチンスペースから出てきた。
鼻腔をくすぐる香りは紅茶のそれ。
テーブルの上に置かれたお盆の上に布巾を敷いて伏せてあったカップを引っくり返すと、彼はポットを傾けて濃い琥珀色の液体を注ぎ込んだ。 「赤ちゃんのミルクはないんですか?それからおむつは?」
ポットをテーブルに置いた男は、泣きじゃくる赤ん坊にそっと手を伸ばして、特有の綿毛に似た柔らかな髪をあやすように撫でながら、腕にその小さな生き物を抱えている青年に尋ねた。
青年の首は横に振られた。
「持ってない……」
そのまま消えてしまいそうな声でそう呟いて、目にいっぱいに涙をため、彼はそれを隠すように顔を伏せた。
赤ん坊のための用品すら満足に所持していない事実が悲しくて悔しくて情けなくて……そんな彼の心情と、その状況に追い込まれるに至らしめた何らかの事情の存在を読み取って、男は手を伸ばす。 「では買いに行きましょうか。これではこの子がつらいだけでしょう」
わけありであるらしいその青年の頭にも手を触れて、髪を優しく撫でてやった。
青年は大きな掌に頭を撫でられて、ますます弱った。
妻がいなくなってから、この世に味方なんてただの一人も持たず、赤ん坊とたった二人きりで生きてきた彼にとって、久しぶりのその感覚は涙腺を緩ませるに充分足りるものだったのである。 優しくて温かい掌の感触に、彼は腕の中の赤ん坊の泣き声をさえ、しばし忘れていた。 「ああ、あなたまで泣かないで……。さあ、行きましょう。あなたも来てくださらないと、私にはよくわからないので」
男は言って、むずかる赤ん坊を青年の腕から抱きあげた。(3/28)
「今夜はうちへ泊まってお行きなさい。寝室は二つありますから。 ―――あぁ、普段使わないので少し埃っぽいかもしれませんね……私の方を使ってください。埃は赤ちゃんに悪いでしょうから」
男は手作りの温かいスープを青年にふるまってから、そんなことを言った。
近くの大型スーパーに出かけて赤ん坊に必要な品物を幾らか揃えてきた彼らである。
男は青年に事情を尋ねることは一切せず、ただどの品物がどれほど必要であるかということだけを、腕の中でむずかる赤ん坊の若い父親に求めた。
不機嫌な赤ん坊を抱いて、憔悴したような顔をした青年の手をひくその姿が、他の客たちにどのような印象を与えたのかということも、彼は全く気にしていない様子だった。
例えば溺れた人が船に助けられたとき、無条件に救い主の好意を受け取る権利を有しているように、男にとって青年と赤ん坊に手を貸すことは至極当然のことであるようだった。
当の赤ん坊はといえば、今は粉ミルクと新しいおむつに満足してぐっすりと寝入っている。その寝顔は先ほどまでのむずかりようが嘘のように愛らしい。
一方の青年は今にも泣きそうな顔をして、向かいに座って自分を見つめてくる男の目を見ている。
黙ったままの彼に、男はああと頷いて、
「お風呂がまだでしたね。すみません、今日はお湯を溜めていないんです。今から溜めてもいいんですが、それともシャワーで構いませんか?」
小さく首を傾げてそう尋ねる。
この期に及んで何も聞こうとしない男に、青年は自ら問うた。
「なんで、何も聞かないんだ」
彼は掛けた椅子の上に固くなっている。
膝の上に両の拳を置いて握り締め、その体は緊張のあまり震えていた。
男はそんな様子に痛ましく目を伏せると、再び開いて今度は相手に微笑みかけた。
「今はゆっくりお休みなさい。あなたはとても疲れている。
明日の朝でも、いつでもいいから、話してくださる気になったときに」
その瞳は親のような情愛を湛えていて、青年の双眸から涙がついにこぼれ落ちた。
男は困ったような顔をして、手を伸ばす。
どうしたらいいのかわからない。
そうして、相手の頭を撫でるよりほかに思いつかなかった。(3/30)
二人はともに不器用だった。
胡散臭い限りの子連れ青年を泊めようとする男しかり。
そんな裏があるとしか思えない行動をとる男にすがりついてしまっている青年しかり。
もしそのどちらか一方でも、もっとしたたかであったなら、もう一人はすっかり騙されてしまったろう。
二人はともに不器用だった。
だから、それでよかったのだ。
男はやがて、椅子から立ち上がって青年の前まで歩いていった。
そして身を屈め、顔を伏せて涙を落とす彼をしっかりと抱きしめた。
青年はおとなしくなされるままに身を預け、広い胸の温かさによりいっそう涙を募らせた。
これまで得られたことのなかった、温かい腕。
広い、厚みのある胸に顔を押しつけて、彼はただ、泣いた。
これまでのつらかったことを、苦しかったことを、流せなかった涙をすべて、ここに吐き出した。
男のシャツがすっかり濡れてしまうまで、彼はすがりつくように顔を埋めて嗚咽をもらし続けた。
ガ、キ……みてぇ……
いいんですよ。私からみれば、あなたも十分子どもなんですから……。
そんなに張りつめないで。肩の力を抜いて羽根を休めてごらんなさい……
ソファの上に敷かれた柔らかいタオルケットの上に寝かされていた赤ん坊が空腹を訴えて泣き出すまで、二人はじっと互いの温もりに安らいでいた。
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