[ contents ] index - menu - library - BBS - diary - profile - link

神刻

1 2 3 4 5 6 7 8 9 10 11 final epilogue



思いもよらなかった二度目の出逢いは、あれから二年近く経ったころのことだった。
オレは再び、夜の町を歩いていた。

中一のあのときの不思議な時間を、既に思い出の中にしまいこんでいたオレだった。
親父はもう、いない。
オレが中二になってすぐ両親は離婚し、オレも美弥も母さんに引き取られて、今は三人暮らしだ。
借金しか持っていなかった親父はオレたちの養育費すら払わなかったけれど、そんなことはどうでもよかった。あの親父と離れられるなら。
母さんに苦労をかけてしまうことは苦しかったけれど、それでもオレは嬉しかった。
狭いアパートに、乏しい家具。けれど母子三人で暮らしてゆけたら、それが一番幸せだった。
親父の顔を見なくてすむならそれで十分だと思っていた。とにかく自分の前からいなくなってくれさえすれば、それでよかったんだ。
―――そして、その願いは永久に果たされた。
親父はもう、いない。この世のどこにもいない。
母さんと別れて半年もしないうちに、死んだ。例によって前後不覚になるまで酔いつぶれて、家に帰り着けずに凍死したらしい。
オレは葬式にも行かなかった。
あんな男にも葬式を挙げてくれる知り合いがいたのか、と少し目を見張っただけで、オレはもう何も思わなかった。
そんな自分を冷たいと思うほど、オレは幸せに育ってきた人間じゃなかった。

そうして解放されて、一年が過ぎていた。
オレは今、中三だ。
九月。進路を決める時期にさしかかっていた。
進学か、就職か。
これ以上母さんに負担をかけたくなかったから、オレは働こうと思っていた。母さんは、遠慮しないで高校へ行きなさいと言ってくれたけど。
オレだって、高校へ行きたくないわけじゃない。
唯一親友と呼べる譲と一緒に通えたらと思う気持ちはあった。
でも、無理だ。
女手一つで二人の子供を育てている母さんを思えば、何より大事な妹を思えば。決して勉強好きというわけではないオレが、高校へ行くべきなんかじゃない。

結論は一つだった。

―――けれど、オレは星を見ていた。
あのときのように、夜の町をゆっくりと歩きながら、煌く光に見入っていた。

ここはあのときオレがいた町ではない。
両親の離婚の後にオレたち三人は引っ越していた。母さんの勤め先が見つかった松本に。
だから星を見ているのもあの神社に行ってというわけじゃない。ここは、住んでいるアパートを出てしばらく歩いたところで見つけた、小さな森の中だった。

星は、あのときと同じように輝いている。
いや、空気のきれいなここではあのとき以上に煌きが冴えていたかもしれない。
闇色のドームにちりばめられた光の点に吸い込まれながら、オレはいつもそうするように、呟いた。
綺麗だと。
そうして、しばらく無心に空を見上げていた。

けれどやがて、心の隅に追いやっていたものが、戻ってくる。
―――どうしたらいい? 行きたい? 行きたくない? それとも、行けない……?
思い出したらおしまいだった。
オレは静けさに浸ることを諦めて、首を戻した。
答えは決まっているのに、オレはなぜだかこうして空へ問いに来ていた。
本当は行きたくてどうしようもないくらいなのかもしれない。だから迷っているときの癖で星を見に出たのか。

「参ったよな……」

呟いて首を振りながら見るともなしに左がわへ視線を流したとき、オレは、一度は素通りしかかった何かにふと注意をひかれた。
勘のようなそれに従って視線を戻してみると、一本の木がオレの目をとらえた。

優しげな緑の葉をつけた、桜に似た姿の木だった。

それは別段変わった木でも何でもないようで、オレは首をひねった。
何が、オレをひきつけているのだろう。
「銀杏だったらな……」
ふと思い出して、呟いた。

二年ほど前、大きな銀杏の木の下に現れた不思議な幻。
つらくて苦しかったあのときのオレを、いろんな意味で救ってくれた、男がいた。
暗いばかりだったあのころの記憶の中に、唯一の宝物のような時間。それを思うたびに、オレは心の奥に小さな灯りがともるのを感じる。
「直江……」
大事にしまっておいた名前を、舌にのせてみる。

すると、まるでそれが合図だったかのように、件の木の周りに変化が見えてきた。
「 !? 」
あのときと同じように、空間が溶ける。
闇が歪む。――、 、
―――そして、それが姿を現す……
嘘だ、うそだ―――と声にならない声で呟き続けながら、その変化をオレはただ見つめていた。

また、おぼろげな形から始まって、その姿が質量を得てゆく。肌が、髪が、生気を帯びてゆく。
しかし、決定的にあのときとは違うことがあった。
直江は、満身創痍ともいうべき姿をして、実体を得るや崩れるように膝をついたのだ。

「……直江ぇっ!」

その瞬間、オレは地を蹴っていた。
直江までのほんの数メートルが、永遠のように長く感じられた。

駆け寄って、オレは息を忘れた。

血だらけ。
傷だらけ。
飛行服は血に染まり、ゴーグルにはくもの巣状のヒビがはいっていた。

心臓を冷たい手で撫でられたような気がした。
ひどい怪我だ。
おまけに、海に落っこちたように容赦なくずぶ濡れて……。

―――落ちた?

もしかして本当に落ちたのか? 海上戦をして?
直江がどの軍に所属しているのかはそういえば聞かずじまいだったけれど、海戦に参加していてもちっともおかしいことはない。
直江があのとき話していた通りならば、時は1944年初冬。
当時日本帝國海空軍連合艦隊の戦っていた場所は、主にアジアの海だ。

直江と出逢ったあと、オレは太平洋戦争史を片っ端から勉強した。少しでも、知りたかったから。直江がどんな状況に生き、何を思っていたのか、片鱗でも理解したかったから。

―――その知識を引っ張り出す。
6月19日、マリアナ沖海戦。日本軍は、空母三艦撃沈、空母機378機喪失という大敗を喫した。
7月7日にはサイパン島防衛隊の残存勢力が万歳突撃を行い、総員戦死。テニアン島は8月3日、グアム島は10日を最後に連絡を絶ち、マリアナ諸島は陥落。これによっていわゆるB−29の本土爆撃が必至のものになる。
そして、次の連合国軍の目標は、フィリピンだった。
9月15日、パラオ諸島についに連合軍が上陸。
そして…… ―――

それらの知識に頭を明け渡していたのは、たぶんほんの一瞬のこと。
「っ……く……」
直江が苦しげに呻くのにオレははっと現実を思い出した。
「直江っ……」
オレは頭の中でぐるぐる回っているそれらをひとまず置いて、直江を助け起こした。
どこをつかんでいいのかもわからない、真っ赤なずぶ濡れの体。
オレは一瞬迷った挙句、両の肩を支えることにした。
触れれば、やはり温度はない。そして、ずぶ濡れているのに、その液体がオレの手を濡らすことはなかった。
オレは直江の前に膝立ちに立って、相手の肩をつかんで体勢を保たせた。
直江は苦しげに呻くばかりだ。
オレがいることにも気づいていない。……どうやったらわかってくれるだろう。
両手を使って相手を支えているオレには、他にどうしようもなかったから、顔を寄せた。
「直江、なおえ……気づいてくれ。オレだよ。高耶だ……」
半ばうなだれるようにして苦しんでいる相手の顔を、覗き込むようにして言う。
それでも反応がなかったから、オレは額をぶつけてみた。もちろん、こつんという程度だけど。
そうしてそのままぐりぐり押して、強引に顔を上げさせた。
少し距離を取る。
―――驚いた。オレは二年経って随分変わったと思うけれど、直江の顔はあのときのままだった。
半年とたっていないのではないかと思えるくらい、変わっていない。
あのときのままの鳶色の瞳が、オレを見た。

―――視線が合った。
そこにようやくオレが映る。鳶色した瞳に、ゆっくりと驚きが浸透してゆく。

「オレだよ……わかるか、直江」
忘れられていたら悲しいけれど。

憶えていてくれたか? 直江―――



1 2 3 4 5 6 7 8 9 10 11 final epilogue

[ contents ] index - menu - library - BBS - diary - profile - link