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松本市の山手にある団地に、昼下がりの陽光が降り注いでいます。
この団地で週に二回見られる光景がこれから始まります。
さあ、今日は冬も間近な11月の上旬の一幕を覗いてみましょう。
世にも反則な超絶イイ男のチャリ豆腐屋と、時代も違う神田川な生活を健気に生きる兄妹との物語。
その日常編、
これより開幕いたします〜
「今日は贅沢に湯豆腐にしよ!」
家計をやりくりしている妹の許しを得て、高耶はその時を待った。
まるで恋人からの電話を待つかのように、彼は耳をそば立てて何かを待っている。
その様子を微笑ましげに見守る妹はまるで初恋に悩む娘を見守る母親のようだ。
わかっていて兄におつかいを頼んだ彼女は、台所で鍋を火にかけながら一人ほくそ笑んだ。
やがて、
パフパフ〜
というあの独特の音が聞こえてくると、愛すべき兄は目に見えて動揺した。
「美弥。行ってくる!」
勇んだ表情を隠そうともせずに、彼は玄関を飛び出していった。
残された妹は、心底楽しそうに笑っている。
彼らはこの団地に住む兄妹である。
訳あって両親が側におらず、二人暮らしをしているのだ。しかし、そのような逆境にも負けず、二人は健気に一生懸命生きているのだった。
兄妹は、兄が高校二年生、妹はまだ中学一年生である。
兄が飲み屋の店員をして生計をたてているので、時々両親からの送金がある他は、ごくごくつつましい生活を営む二人である。白いご飯と味噌汁があればご馳走、という認識すら日常的なものになっているほどだ。
普段は兄のバイト先の残り物を貰ってくることで何とか腹を満たしている。つまり、おかずは種類を揃えられるが、炭水化物が不足しがちの食生活だった。
ちなみに、学校へ持ってゆく弁当がないので困っていたところ、同じ団地に住む奥さん連が、バイト先の兄の健気な働きぶりとその気の毒な境遇に涙して、自分の家の子どもたちの分を作るついでに、順番を組んで当番制で兄妹の弁当も作ってくれるようになったという涙の歴史もある。
(今日の弁当は三号棟の南さんの作である。ここの奥さんは料理上手なので兄妹はるんるんな一日だった。)
そんな二人にとって、なくても生きてゆける豆腐をわざわざ買ってくるということは十分な贅沢の範疇に含まれるのだった。
今日もいい天気だ。
のんきなことを思いながら、男は今日も修行の道のりを続ける。
重い荷を積んだ自転車を軽々とこいで、彼はお得意先の集合住宅へと道先を定めた。
若き事業家といっても納得されそうな賢しい額と瞳を持ち、柔らかそうな茶色の髪を自然に流した、俳優並の美貌を持つ見事な長身の男が、白い作務衣を着込んで、のどかな土曜日の午後の太陽の下を、団地の中へと自転車をこいで走っている。
重いケースを乗せた古めかしい自転車は、手ぬぐいを首から下げたおやじさんにこそ似つかわしいもの。それを、俳優かホテルマンか、といえそうなハイグレードな男がこいでいる。
着ているものがスーツでないだけまだましだったが、何とも珍妙な眺めだった。
しかし、当の男はそれはそれは幸せそうに熱心なペダルさばきを見せている。この似合わない商売を心底楽しんでいるらしいことが一目瞭然だった。
そう、この男こそ、この界隈をにぎわせ、奥様連を総なめにして顧客を離さない、豆腐の自転車行商屋なのだ。正確に言うと、彼はこの近所に店を構える豆腐専門店に弟子入りした脱サラ男で、ただいま外回りの修行の真っ最中という身の上だった。
こうして、超絶イイ男の移動豆腐屋は、自転車のゴムフォンをパフパフ鳴らしながら今日もお得意先へと、ペダルも軽く出張するのだった。
「あ、お豆腐屋さん!」
ボールを蹴っていた子どもたちが声をかけてくるのににっこりと笑顔を返して、
「今日も元気ですね、みんな」
可愛いけれど口の悪い今時の子どもたちはさらに言葉を続ける。
「なおえもな!」
「まだ出前してるのか?」
「いつになったらしゅぎょうおわるんだ?」
子どもたちは容赦がない。
苦笑しながら直江は返事をかえす。
「まだまだですよ」
「がんばれよ、なおえ!」
「じいちゃんきびしいもんな」
「ありがとうございます」
そんなやりとりのあと、彼は顧客のひしめく団地へと入っていった。
「絹こしを二丁いただくわ」
「二丁ですか?健康的ですね。さすが、いつもお綺麗ですよ」
「あらやだ、お上手なんだから〜」
彼がフォンを鳴らしながら団地の下の定位置に至り、昔懐かしいごついスタンドを見事な足さばきで止めると、そこにはあっと言う間に黒山の人だかりができた。
言うまでもなく、彼の最大のターゲットである主婦連だ。
ただ立っているだけでも随分と目の保養になるイイ男である。その彼の低めの美声で至近距離からさらさらっと上手を言われると、日常に退屈した奥様方にはちょっとしたスリルというか、たまらない刺激になるのである。その短いやりとりが彼女らの楽しみなのだ。
こうして週に二回豆腐を売りに来る彼と、どれだけ長く親密に話すことができるかが、最近の彼女たちの競い合いの焦点となっていた。
直江は作務衣の袖を優雅にまくり上げて、露になった引き締まって逞しい腕で奥様連の視線を釘付けにしながら、自転車の荷台に積まれているケースの中へと手を入れて、水の中でぷかぷか浮いている真っ白でデリケートな直方体を愛しげにすくい取ると、その真剣で甘い眼差しを奥様連へと移して相手の差し出す器へと可愛い子どもたちを滑り込ませる。
どうぞ、と囁いて代金を受け取り、また今度、とお釣りを渡す。
そうしていやみのない微笑むような笑顔を見せれば、一仕事終わり。
すぐに次の奥様が声をかけてくる。
「うちは木綿を二丁くださる?今夜はお鍋なの」
「そうなんですか。育ち盛りの子どもさんにはしっかり豆腐と野菜で栄養つけてあげてくださいね」
相手の熱心な瞳を鉄の微笑みでかわして、しっかり売り込みも欠かさない。
「ええ。うちの子、お豆腐ギライだったのに、直江さんとこのは喜んで食べるのよ。本当に美味しいわ」
『東川さんとこの豆腐』が、いつの間にか、『直江さんとこの豆腐』になってしまっている。直江はまだ弟子の身分だというのに。
「ありがとうございます。師匠が喜びます」
軽く瞼を伏せることで礼をして、尚且つ相手の台詞の誤りをさり気なく訂正する。
「よろしくお伝えくださいね」
相手は気づいていない。機嫌よく流し目を使ってそんな風に言うのを、直江はやはり鉄の微笑みでかわし、
「もちろんです。今後ともどうぞよろしくお願いしますね」
しかし顧客は離せないのでぐっと声を低くして囁くように言う。
これで、完璧。
「こちらこそ、いつも楽しみにお待ちしてますわ」
―――直江が外回りに出るようになってから、この団地における豆腐消費率が全国第何位に跳ね上がったか、調べた人間はいないだろうが、彼が日本の豆腐普及率を大いに上げているであろうことは一目瞭然だった。
お豆腐は栄養満点であるうえ、料理のバリエーションもかなり広い。今時の若者にはあまり人気がないようだが、これは日本古来の芸術的な食材なのだ。
それを全国に広めることが夢である彼は、今日もイイ気分で奥さん連を誑し込んでいた。
人だかりと化していたその場が静まるころには、重かったケースの中に浮かんでいた可愛い子どもたちはほぼすべて里子に出ている。
本日の山場を終えた直江は、パワフルな奥様連の去った後に所在無げに佇む一人の少年の姿を見つけて微笑んだ。
「こんにちは、高耶さん」
「お、おう」
少年、高耶は家庭の事情で妹と二人暮らしをしているのだと、奥様連から聞いて知っている直江は、おつかいに来たらしい彼の様子にほほえましさを隠せない。
昔懐かしい銀色の器を手に、困ったような顔をして頬を染めている姿が、何とも可愛らしかった。
仕事を終える直前の直江にとって、オアシスといってもいい時間である。
「それで、今日はおつかいですか?」
「あ、そ、そうだ。絹こし一丁くれ」
口を開けずにもじもじしている照れ屋の彼に、こちらから話しかけてやると、慌てたような返答が返ってきた。
「はい。……どうぞ、器を貸してください」
水の中でぷかぷかしている白い直方体をすくい上げ、もう片方の手で手招く。
照れ屋の彼は必要以上に積極的なあの奥様連とは違って、なかなか側へは寄ってこないのだ。いつも困ったように一定の距離をおいている。
「え、と、はい」
呼び寄せられて、少年は戸惑うような嬉しいような不思議な表情をして近づいてきた。
「はい、どうぞ」
差し出された器の中に豆腐を滑り込ませた直江は、からかいたくなって殊更に身を寄せる。
すぐ側に顔をもってこられて覗き込まれた少年はかあっと体温を上げたらしい。人見知りもここまでくると可愛くてならない。それでも自分に対しては警戒よりも好意の方が勝っているらしいのが嬉しかった。
「えっと、あ、ありがと。これ、お代」
絹こしは一丁130円である。ちゃりん、と音をたてて少年は硬貨を差し出した。
「ありがとうございます」
直江は微笑んで手を差し出すと、相手がその数枚の硬貨を離す前に指ごと捕まえた。
「っ」
直接触れ合った手に驚いたか、少年がさらに赤くなる。
反応がいちいち可愛い。
「冷たい手をしていますね。奥様方がいなくなる前から待っててくれたんですか?」
冷えた指先に、すぐ見当がついた。人見知りの激しい彼は、あの凄まじい奥様パワーのさなかに潜り込めるわけがないのだ。
「……直江の方が冷たい」
「豆腐屋は年中冷水を扱いますからね。職業柄ですよ」
目を伏せて呟いた少年に、直江は微笑んだ。
こんな風にこちらの心配をしてくれるあたり、本当にいい子だと思う。
短い会話の中にも、本当に楽しい時間をすごして、移動豆腐屋は今日も充実した外回りの修行を終えて、大いに元気よく、軽くなった自転車をこいで去った。
一方。
「ただいま」
こちらも元気よく帰宅した少年は、妹の笑顔に迎えられた。
「お帰り、お兄ちゃん。どうだった?」
「おう、ばっちり!ほら、豆腐」
あからさまな喜色を浮かべた兄の様子に内心で大笑いしながら、妹は差し出された器を受け取った。
「いいことあったんでしょ〜顔が違うよ」
靴を脱いで中へ上がった兄へ、流し台のボウルにその豆腐を移動しながら妹がからかうように声を掛けると、兄はうなずいた。
「聞いてくれよ。今日直江の手に触っちまった〜」
声のうきうき具合が可愛くて、妹は笑ってしまう。兄にわからないように声を殺して俯く様子に兄は気づいていない。
「どうしてそういうことになったの?」
笑いをこらえて問うと、土鍋を火にかけながら兄が鼻歌混じりに答えた。
「金払うときに、手が冷たいですね、って言いながら握られた。あいつの手って冷たいのな。でも指とか長くて節張ってて、すっげぇ、男の手って感じ」
「へーえ、良かったねぇ」
「へへ、今日はいい日」
「じゃ、始めようか。お出汁も鰹だから美味しいよぉ」
「おお、うまそう。でもって直江の豆腐だから最高だよな」
「ぜいたくだよねぇ」
訳あって親無し兄妹二人暮らし。
そのつつましい食卓に、今夜は贅沢な湯豆腐があった。
……尤も、おかずと言ってはそれだけなのが、神田川の風情を呈していたのだが。
それでも、白いご飯があり、きちんとおかずがある。その上、今日はいとしの豆腐屋さんと普段よりも長い親密な会話をすることができた。
健気で一本気、そしてただ今ほほえましい初恋に燃えているお兄ちゃんは、至極幸せな夕食を噛み締めていた……。
同刻。
ガンコ親爺の許へ帰り着いた男は、ふた周りも小さそうなその師匠から、こっぴどく叱られていた。
気に入りの少年といつもよりも親密な会話を交わし、その上手まで握ってしまった、と、ふわふわふわ〜んと浮いていた彼は、元気良くこいでいたペダルをどこへやらわからぬ場所まで進めてしまい、店にたどり着くのが普段の 二倍も遅くなってしまっていたのである。
「弟子の身分で色恋沙汰に現を抜かすとは、言語道断じゃ!」
怒り心頭に発したお師匠の言いつけで、彼は一人冷たい水回りを一晩中洗ってまわらされたとか。
―――しかし、その間中昼間の出来事を反芻していたということは、お師匠さまも、知らぬが花。
(↑血圧上がっちゃうもん)
東川豆腐店のお豆腐に惚れて脱サラし、お師匠にどつかれまくりながらも愛しの白い四角形の子どもたちとのドリームな生活にふわふわしているイイ男と、そんなキラキラした男にすっかり惚れこんで、妹に蔭ながら強力なバックアップをされている(が気づいていない)少年兄の、ドキドキわくわくな片思い×2事情、日常編。
これにて、一旦は閉幕となります〜
02/11/02
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