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the guard
 アメリカという国の都市は、それ一つが各々、世界の縮図と呼んでもよいほど入り組んだものを抱き込んでいる。
 ありとあらゆる人種。豊かな言語文化。
 明るく煌びやかな表通りと、真昼間でも薄暗い路地。
 表通りを流れてゆく人の波と、高級車に乗りつけたthe successful。ほんの眉の端だけの仕草で社会の流れを変えてのけるという器用な芸当をこなす人間たち。
 そして裏通りには、ありとあらゆる程度のいかがわしさがある。貧しい子どもの花売りから、深海魚のように生息する情報屋まで。
                                                                   c h i l d r e n
 そんな路地の一つに、最近力を付け始めてきた或る子ども集団の溜まり場があった。


「……Naoe ! 」
 年の頃は十代半ば。身なりは貧しいが眼光と体のしなやかさにはエネルギーを溢れさせている少年たちが、そこに溜まっている。彼らはグループのリーダー格に当たる人間たちで、この周辺を走る四本の通りとそれに直交する三本の路地を縄張りとして管理していた。
 彼らの自慢は、四本の通りの一番向こう側に広がっている港だ。金もない、学もない、親も無ければ兄弟も離れ離れ、という彼らだが、視界一杯に広がる夕陽はどんなに眺めていてもタダだった。ストリートの喧騒を忘れることのできるこの港沿いの通りを掌握しているということが、他に何も持たない彼らの、唯一つの誇りなのだ。
 その港通りから、一人の少年が路地裏の溜まり場に駆けてきた。
「でっけぇ声出して、どうした?」
 大きな声で、グループの事実上のトップの位置にある少年の名を呼びながら駆け込んできた彼を、レンガの剥き出しになった階段に座り込んでいたほかの少年たちが笑いながら出迎える。
 彼らは円のように囲んで話していたのを解いて広がり、一番下の段に腰掛けて会話を取り仕切っていた少年の姿を現わした。
 それが、グループのトップであり、齢に似合わぬ指揮統率力を誇っている十二歳の少年である。
「ナオエ、このシマになんかすげぇ男が来てるぜ」
 駆けてきた少年が瞳に面白そうな光を浮かべて彼に告げたが、硝子に似た硬質の仮面を持つ少年は僅かに目の色を変化させただけである。
「どういう意味だ?」
 周りの少年たちがどこか幼さを残している中で、彼だけは異彩を放っていた。一歩退いた場所から物事をその静かな鳶色の瞳で見据えている、そんな風に見える少年である。
 あまり気を引かれた様子を見せない沈着さとは対照的に、相手の少年は心底興味を持っている様子で、
「見たらわかる。普通じゃねぇ。いやな感じはしねーけどな」
と瞳をくるくるさせている。
「ふうん?」
 普段から興奮しやすい性質であるのならともかく、彼はグループのリーダー格の少年の中では極めて落ち着いている方であったので、トップの少年は珍しいものを見る表情になって相手を見上げた。
「で、その男は何しに来たんだ」
「聞いて驚けよ、お前を名指しだ。このグループを仕切っている奴の中にナオエというのはいるかって、滅多にお目にかかれねぇ完璧なクインズイングリッシュで訊いてきたぜ」
 少年の言葉に、対する少年は眉の角度を跳ね上げた。
 Queen'sEnglish
「英国英語?何だそれは」                                                   Queen's English
 どこに、こんなアメリカのバックストリートのガキを呼びつけるのに英国上流英語を操る男がいよう。
 少年は周りの少年たちからは窺えない何かを秘めたその脳の中で、一瞬目まぐるしい思いを巡らせた。
「ありゃきっと本物だ。ナオエ、なんかやったのかよ?」
 目の前で腕を組んでにやにや笑いながら覗き込んでくる少年に、彼は肩をすくめて立ち上がる。
「馬鹿言え」
 半ば本気を含んだ軽口を唇の端で笑い飛ばした少年は、仲間の少年たちの間をすり抜けて悠然と表に出ていった。
「がんばれよ、ナオエ」
 仲間たちはその後姿を面白そうに見守っている。
 あまり普通のものとは思えない男に対峙しに行くというのに一切の気負いを見せないその背中は、彼らがあてもなくたむろしていた過去から今の集団生活へと、このグループを導いてきた一つの先導指標だった。
 親の背中を知らない少年たちは、あの背中を追いかけてここまで来たのだ。



 その少年は、角の手前で待っていた男を視界に入れて内心驚いていた。

 なるほど、仲間の言ったとおりだ。
 これは本物の男だ。自分たちのような子どもの遊びではなくて、本当の意味でその世界に生きている男。
 ぎらぎらした感じは全くないが、普通の人間とは違うどこか鋭利な空気を漂わせている。

 きちんとスーツを着込んで美しい姿勢で歩いてきたその三十路半ばと見える男は、かっちりと櫛を入れた漆黒の頭を屈めて、同じ黒の瞳で直江を見つめてきた。
 少年の仲間は彼が正統英語を操ると言ったが、男は確かに米国人ではありえない。彫りは深いが、その顔立ちは少年の中に秘められている一つの事実と記憶を引っ掻く、東洋のものだった。
 ―――そう、日本人としてはかなりの長身に入るその体が、直江の瞳をしばらく見つめたあとにすっと下へ下がった。
 膝をつく格好になって、男は直江を見上げてきたのである。
「Naoe ... 、信綱さまですね」
 整った顔立ちは穏やかで静かだったが、その瞳には深い知性と堅気の人間以上に濃い情が見て取れた。英国英語ではなく美しい日本語を操っているその声は、落ち着いた低いトーンで、少年が戸惑うほど親愛の情をこめたものだった。
 男は慈しむように微笑んで、彼を見上げている。

「……ああ。あんたは?」
 二年も使っていなかった自らの根源言語で、少年は些かぎこちなく言葉を紡いだ。

「これは申し遅れました。私は橘の五本槍四の位、有吉と申します。……意味はおわかりでしょうか」
 笑みを収めて真摯に見据えてくる男の言葉に、少年は返す言葉を失った。

 ―――自分の出自は知っている。亡母が二年前にすべてを話してくれた。日本の裏世界の大一族柊のこと、そこから独立した橘のこと、自分がその当主の落としだねであること。
 その意味を諭し、自らの身の振り方を熟慮するようにと母は言った。仮にこのまま誰にも知れずに生きてゆけるとしても、自分がその血を引いているという事実は変わらない。いつ何時敵対勢力の手がのびてくるかもしれない。非常に微妙な位置に立っているということを自覚し、間違っても他人に迷惑をかけるような愚かな行動は取るなと。存在を利用されることはあってはならないし、かと言って何かのときに知らん顔をすることは情けない。
 自分で判断して、良いように動きなさいと。
 グループを立ち上げたのは仲間たちとつるんでいたかっただけで、自分の存在を顕示したかったからではない。しかし、おそらくそれがきっかけになってこの橘の男が今ここに来てしまったのだろう。
 自分を消しに来たにしては瞳が温かい。きっとそうではなくて、迎えに来たのだろう。

 少年は、短い自己問答を終えて再び相手に視線を戻した。

「……おわかりのようですね。信綱さま、私と一緒に橘のもとへおいでくださいませんか」
 有吉と名乗った男は、その瞳の色を見てゆっくりと手を差し出した。
「優秀な若い人材、埋もれさせておくにはあまりにも惜しいと、主は仰います。養子に迎えてその能力を生かす道を探したいと」
 少年はその言葉にまた表情を変えた。

 ―――橘は自分の出自を明らかにするつもりはないのだ。目を付けて引き抜いただけの他人として、「養子」にするという。

 一瞬、亡き母のことを思って拳を握りしめた少年だったが、彼はすぐにその力を抜いた。

 ―――それもいい。他人としてならば、煩わしいことの一切を抜きにできる。今更父親を名乗ってほしいとも思わないし、親に甘える歳でもない。
 下手に『親子』をやり直すよりは、養い親と養子の関係でつかず離れず橘を見ていられたら気が楽だ。

「……なるほど、話はわかった。だがこっちにも都合がある。俺がリーダーを名乗っているからにはこのグループの行く 先を預かるのは俺だ。今後のことを決める時間が要る。
 また今度出直して来い」
 少年はそう言って踵を返そうとしたが、男は首を振った。
「その必要はありません」
「……どういう意味だ」

グループは今日で解散だからです。言ったときには、何かを察した直江の制止は既に遅かった。







 少年たちの溜まり場は、素早く主の息子を腕に抱き込んで背中で庇った男の向こうで爆発、炎上した。

 爆風の風圧に耐えてその場に踏みとどまった男の腕の中で、少年は即死したであろう仲間たちの断末魔を幻聴に聞いた。

「お前は……っ!」
 収まった風の向こうから吹き付ける強烈な熱に喉を焼かれながら、直江は叫んだ。叫んで男を殴りつけた。頑丈な胸板に拳を叩きつけ、小さな子どものように喚いた。
 そんな直江をきつく抱きしめて、男は何度も繰り返す。
「信綱さま、これが私の覚悟です。あなたさまの過去は私が負いました。
 どうぞ私をお憎みください。それでいいのです。私を憎んで強くおなりください」
 繰り返し、男は直江の拳が力を失うまでそうし続けた。



 その男が自分の後見人につくと知ったとき、直江はようやく、あの日の言葉の意味を知った。

 一生、許さないという言葉が、後見人として現れた有吉への直江の第一声だった。
「何があってもお側におります」
 有吉はそう返して、微笑んだ。
 彼はその言葉どおり、橘の滅亡後もただ一人直江の側に仕え続けた。先代の仇をとったその日まで。




「お見事でございました」
 すべてが終わったとき、有吉は帰宅した血塗れの直江を静かに見た。

「私を殺してくださいませんか。
 あなたさまの憎しみの一切を、私の命と共にここで終わりにしてくださいませんか」
 その手で殺してくれと頼んだ有吉に、直江は首を振った。
「どうして今更」
「私の命は先代の仇を全うするまでと決まっています。それは変わりません。だから、あなたさまの手で殺していただきたかったのです」
「馬鹿を言うな。お前は約束を忘れたのか?一生側にいると言ったはずだ。忘れたのか」
「私は四年前に死んでおりますよ。あれからの私は亡霊のようなものです」
「……そうか」
 直江は顔をそらした。
            
「ならば、往ね」

 語尾が震えずにいられたか、自信はない。
 男が深く礼を取ったことを気配で知った。

「―――有吉はこれにておいとま致します。信綱さま」
 最後の声は、なぜか幸せな響きを帯びていた。

 扉が閉ざされた後、直江は口元を塞いでいつまでも彫像のように動かなかった。




 有吉の死を知ったのは翌朝の新聞でだった。割腹自殺を遂げた壮年の男、身元不明、という内容の小さな記事。自分が起こした騒ぎの記事が大きく紙面を割いて、あの男の訃報は隅のほうに目立たず載っていた。
 男は四年前に大火事で焼けた橘邸跡で倒れていたという。身元を示すものは一切持たず、身に帯びていた唯一の手がかりは辞世と思われる句一遍であった。
「契りてし若芽が時を望み得で 結ぶ白露誰ぞ払ふや」
 その一行を目にして、直江は今度こそ慟哭した。
 橘に殉じたあの男は、結局最後まで自分のことを思っていたのだ。自らの亡き後自分はどうやって生きてゆくだろうと案じながら、散ったのだ。その言葉には一度も嘘がなく、まさに一生の最後までを自分のために費やした。

 慕って―――いた。
 目の前で仲間を全て殺され、憎んで恨んでいつも全身で拒絶してきたあの男。けれどもいつの間にか背後にあの静かな気配がなければいられないようになっていた。
 不思議な男だった。
 深い教養と確かな理性とに裏打ちされた、厚みのある大きな男だった。どこか憧れてすらいた。あんなにも物事に動じない穏やかな男を他に知らない。
 自分の青さにもそれゆえの無茶にも全身で対峙して、父親よりも父親らしかった。そして、先生だった。
体術、武術、一通りの学問、そして何より人間性を、教わった。いつも背中にいたはずのあの男の、背中を見て自分は今の自分になったのだ。
 あの男が『死んだ』と称した四年間、自分と共にあったのはあの男ただ一人。橘の五本槍の一人であったあの男ではなくて、この四年間はただ自分と共にある一人の男だった。
 二人だけの"team"だった。

 喪えないただ一つの存在だった。

 それが、喪って初めて言える本音だった。

 言えばよかったのか。あのとき、泣いて縋ればよかったか。何もかもなくしてただ自分のためにだけ生きてくれと、言えば良かったか。橘に殉じるべきあの男の先を、俺が殺して負えば良かったか。
 そうすればあの男は今もまだ、この背を守ってくれたか。

 男のプライドもこの道の人間の貫くべき思いも建前も踏み越えて、ひれ伏して素直に請えば……?

 こだわりつづけた型を……本当は壊してしまえばよかった。
 馬鹿なことにこだわって、こんな風に喪う前に。
 総領と後見、そんな型を後生大事に守ることがたとえ男には幸せなことであったとしても、それを敢えて踏み越えれば別の関係があったろう。
 できのよい総領を演じるのではない、気安い友人のように。
 適度に厳しく適度に優しい後見役を求めるのではなく、年上の血族にするように甘え。

 わざわざ言葉にせずとも、本当はお互いがどう思っているかは知っていた。敢えて最初の与えられた役割をなぞってきただけで。
 傍目にはきっと馬鹿正直だと映るだろう。不器用だと笑われるだろう。
 ―――それでも、互いをつないだ最初の型から抜け出ることは、ついにできずじまいだった。

 お見事でした、と言った瞳を忘れない。
 これで私の役目も終わった、と安堵し、同時に悲しむ色が、そこにはあった。

 あのとき、あのときしかガラスの檻を壊す時はなかった―――

「あああああ……!」
 どんなに声を上げても、窘める者はない。
 そのように動揺を見せるものではありません、と言うべき声はない。
 もう二度と。
 あの静かな語り口を耳にすることはないのだ……


 ふと、頬を濡らす熱さに気づいて直江は手のひらを当てた。
 付着した露に見入って、呟く。
「白露……誰ぞ、払ふ……」

 しばらくの沈黙の後に、彼は目を閉じた。
「……誰にも涙など見せない。誰にも拭わせたりしない……」

 たった一人で生きてゆくのだと、彼は呟いた。
 もう誰にも自分の支えにはさせない。
 お前の心配は、必要ないよ……と。
 一人でも生きてゆける。
 泣いたりなどしないから、大丈夫。


 ―――そして十年、直江は一人きりで生き続ける。

 一本の間違い電話が、彼を目覚めさせるまで。
 凍てついた長い冬から、氷を溶かすその日まで。



03/05/03


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