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 とある大手新聞社発行の五月三日の朝刊、教えます・譲ります・探していますなどの雑多な記事がひしめく三行広告の中に、こんな投稿があった。

 『拝啓 エゴイスト殿 先日の場所にて待つ ―――T』

 早朝の新聞を手にし、仕掛け人はその記事を見てほくそ笑み、宛先の『エゴイスト殿』もまた目を細めていた。

 三月に行われた遣り取りと同じ、非常に回りくどく、しかし当事者なら絶対に見落とすことのない連絡手段。
 直接の働きかけをすることができない側の青年は、ありとあらゆる情報を把握する恋人なら必ず気づくはず、と万人に向けて開かれているその三行スペースに相手への呼びかけを投稿したのである。
 結果は無論のこと、大成功であった。青年は生身で会えない寂しさをせめてもの会話で紛らわそうと思っただけだったのだが、恋人は一週間もの間、体を空けてくれたのである。特に何をするでもなく、ただ傍にいて、その気配を感じているという穏やかでささやかな幸せを、二人は過ごした。
 それからおよそ一ヵ月半が過ぎている。
 再びの呼びかけに、青年の恋人は応えてくれるだろうか。
 Noはあり得ないとわかりきっていながらも、青年は幾らか駆け引きめいた胸の高鳴りをおぼえていた。

 恋はいつだって刺激的でなければ。
 最初の出会いから既に五年近くになるが、惰性で恋はできない。
 愛を疑うわけではないけれど、離れているときは恋だから。
 滅多に会えない恋人をデートに誘うときには小気味良い緊張感を味わうことになる。
 ―――それが醍醐味でもあるのだけれど。

 そんなことを心の中で呟いた青年は、能天気なその思考に自ら苦笑した。
 随分な修羅を経てきたというのに、恋だなんて爽やかなことをよくも考えていられるものだ。
 どれほど深く依存し合っているのか嫌というほど知っている。
 水と油は混ざらないというが、自分たちは既に分離不可能な域まで溶け合ってしまっている。もう水でも油でもない。
 黒と白を混ぜたら灰色。灰色を黒と白に分かつことができないのと同じように、自分たちをばらばらにすることは何ものにもできないことだ。そう、自分たち自身でさえも。

 そんな結びつきでありながら、今はまるで普通の遠距離恋愛の恋人のような駆け引きを楽しんでいる自分に、青年はくすりと笑っていた。



 午前六時、仕掛け人は既に指定の場所へ到着していた。
 最寄り駅の隅にひっそりと置かれているロッカーの、右から二列め、上から三つ目。
 三月に恋人が指定してきたその場所には、今度は青年の意図で、あるものが収められた。


「―――さてと。もうそろそろ行かないとな」
 仕掛けを済ませてから駅のホームに置かれたベンチでのんびりと時間を潰していた高耶は、腕時計が七時を指したのを見て立ち上がった。
 待ち人は時間に遅れることがない。いつでも自分が先に到着するように早くやってくる。今回は特に時間を指定しなかったが、おそらく記事に気づいてすぐに支度をするだろう。
 この駅は都心からは少し距離のある郊外に位置しているから、彼の住まいから一時間か二時間は掛かるとみて間違いない。それならば、早くて八時前にはここに到着する計算になる。だから、七時ごろから待っていないと先を越されてしまう可能性がある。
 高耶は、今日はこちらが待つんだと僅かに意気込んで、ホームの階段を降りていった。

 定期を使って改札を出、西口に向かって歩いてゆく。
 角を曲がったところにロッカーコーナーがあるのである。その角に差し掛かって、高耶はふと目の奥を変えた。

 ―――覚えのある気配。決して間違えるはずのない、たった一人の。

 高耶は駆け出す。

 ―――果たしてそこに男はいた。
 ロッカーに凭れた長身。西口から差し込んでくる朝日に逆光になったシルエットには、いつも変わらず隙がない。
 ゆったりと紫煙をくゆらせるその口元には、既に微笑が浮かんでいた。
「―――高耶さん」
 長い指がシガレットバットを抜き取って、男は自分を呼び出した相手へと視線を移す。
 鳶色。
 深い色をした瞳が高耶の驚いた瞳にぶつかって、しばしの沈黙がそこに生まれる。

 そして、
「―――直江っ!」
 僅かな空白の後に、高耶は待ち人に飛びついていった。


「お呼び出し、ありがとう」
 休日でひと気のない駅の片隅で、青年は男に思いきり懐いている。
 子どものように甘える彼を愛しげに抱きしめながら、直江は囁いた。
 相手は腕の中で僅かに唇を尖らせる。
「……なんでお前が先に来てるんだよ」
 どう考えてもこの時間にここへ着くわけはないのに。恋人は確か都心に住んでいるはずだ。そこからここまで、二時間は掛かって当然なのである。
 朝刊を読んでから支度をして家を出たら、常識的には八時ごろにここに着くと思ったのに。
「……こんなの、フライングだぞ」
 むーと額で相手の胸を小突く青年であったが、恋人は嬉しそうに笑うのみ。
「そのとおり、フライングです。紙になる前に記事を読んでいれば、この時間にここへ来るのは別段難しいことじゃないでしょう?」

 高耶は思わず顔を上げた。出会った悪戯っぽい笑みに、彼はため息をつく。

「……新聞社の草稿を覗いてたってわけか?……反則だぜそんなの」
 がくりと肩を落とす青年の顔が少しだけ赤いことに気づいている男は、甘い微笑みを浮かべてその頬に指先を滑らせた。
「うぬぼれは百も承知ですが、今日がこういう日だということはわかっていましたからね。勝手に期待させていただきました。
 みごと引っかかったときは嬉しかったですよ」
 ちゅっと額にキスを落とす彼は本当に嬉しそうで、そしてどこか得意げでもある。
 青年は深いため息をついて、相手の胸に寄りかかった。

「―――結局お前には勝てないってことだな。この前だってしっかり読まれてたし」
 諦めたような声音ながら、彼はぐりぐりと相手の胸に懐いている。
「あなたのことを誰より知っていたいのは私ですから。あなた自身よりもわかりたい」
 相手は笑ってその背を抱きしめ、そして彼に囁いた。

「でも、やめるなんて言わないでくださいね。恋に駆け引きはつきもの。そうでしょう?」

 高耶が再び顔を上げた。

 同じことを言っている。
 この男もやはり、今の状態を恋として楽しんでいるのだ。
 相手に何かを仕掛けて、反応を予想して、当たったら嬉しいし、逆に読まれてしまっていてもやっぱり幸せ。
 同じように思っているのだ。この男も。
 ―――嬉しい。

「ね?」
 言いたいことが伝わったことに気づいて、男は片目を瞑ってみせた。
 悪戯な仕草ながら、それはひどく色っぽくて青年はむっと眉を寄せる。
「なんでお前はそんなに……」
 腹を立てているのは男に対してではなくて、そんな仕草一つで動揺してしまう自分の惚れこみ具合に。
「そんなに?」
 少しだけ首を傾けて訊ねてくる様子にさえ、全身の細胞一つ一つが叫び出す。
 好きだ、と。

 けれど高耶は裏腹な台詞を口にする。

「……むかつく」
 こんなにも自分を夢中にさせているお前が。

「ひどいことを言いますね。仮にも今日は私の誕生日なのに」
 わざとらしくため息をつく男の瞳は笑っている。笑って―――そして何かを雄弁に訴えかけてくる。
 その瞳に見つめられると、どうしようもなくなる。
 高耶はようやく降参した。
 求められた台詞を、一番最初に言おうと決めていたはずの台詞を、口にする。


「……直江、誕生日おめでとう」

 見つめた瞳がとろけるように甘く細められ、近づいてくる。

 キスの直前にゆっくりと伏せられる長い睫毛が好きだ。
 顎をそっと持ち上げる指も好き。
 いつの間にか腰を引き寄せている腕も。

「あなたがそう言ってくれるから、私もこの日を大切に思うことができる。本当に……ありがとう」

 ゆっくりと離れた瞳が、もっと優しくなって笑う。

 キスの後にまだ顎のところにいる指が、猫にするみたいに喉元をくすぐるのが好きだ。
 腰にあった腕が背中に移動して体を支えてくれるのが好き。
 そして何よりも―――包み込むように見つめてくる瞳が好きだ。





「直江」

 高耶はポケットに手を突っ込んで何かを取り出し、それを相手の掌に握らせた。

「これは?」
「ここの鍵」

「開けてもいい?」
 プラスティックの番号札のついた、鈍い銀色の鍵を嬉しそうに見つめ、直江はロッカーの鍵穴を指した。
「開けるだけな」
 くす、と笑った高耶に、不思議そうなまばたきを返す彼である。
「いいから開けてみろよ」

「私にくれるわけじゃないんですか?」
 開いた扉の向こうにあったのは、ギフト用であることが明らかな包み。
 それを目にして、直江は不思議がる。
 今度ばかりは相手のペースについてゆけない様子である。それを見て高耶は嬉しそうに首を振った。
 手を伸ばして包みを取り出してしまうと、
「―――なぁ、アトマイザー持ってるだろ」
と言って相手を見上げ、話がどう繋がっているのかわからず首を傾げながら胸ポケットに手を入れた男から、それを奪い取った。
「これはオレに頂戴」

「もちろん、構いませんが……」
 一体どういう意図なのだろうかと訝る直江に、高耶は手にした包みを突き出した。
「お前には、これ」

 自分は奪い取った男の香りに嬉しそうな顔をし、さっそく蓋を取って嗅いでいる彼である。
 一方男はようやく手にすることができた贈り物を開封してみて、相手の意図を遅れ馳せながら悟ったのだった。

 EGOISTE PLATINUM TRAVEL SPRAY。

 ブラックの外装のコンパクトサイズは、携帯用に丁度良い。

「―――この間さ、道歩いてたらエゴイストつけた男とすれ違って」
 包みから視線を相手に戻すと、彼はくすぐったそうな笑顔になって話し始めた。
「思わず足が止まっちまった。それで、もうすぐお前の誕生日だしと思って店に行ってみたらそれがあってさ」

 それにお前のアトマイザーは前から狙ってたし、と嬉しそうに手の中の細長い壜を見つめる彼が愛しくて、直江は手を伸ばす。

「ありがとう」

 羽が降るようなくちづけを顔中に浴びせると、相手はふにゃっと首をすくめて目を瞑ったのだった―――。




03/05/05


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