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熱い紅の液体が、青い花模様の散った白いカップにすいこまれてゆく。
匂い立つ独特の芳香。
物慣れた楓の手つきはさすがに優雅で、見るともなしに皆が目をやっているうちに、三つのカップは満たされていた。
「高耶さん、お砂糖はいくつですか?」
砂糖壷を手に、直江が問う。
何か考えに耽っていたらしい高耶は、呼ばれてはっと意識を戻した。小首を傾げる。
「んー、二つ、かな」
答えはごく一般的な数だったのだが、長秀がそこにちゃちゃを入れた。
「へーえ、砂糖入れんのか。俺様はストレートだぜ。そのままが一番。レモンもごめんだね」
さっさとカップを取り上げて、縁に唇をつけている。
やけに断固とした言い方をするものだ。
砂糖を入れるなんてとんでもないとばかりに高耶を見た彼は、次の瞬間返った返事に声を失った。
「……紅茶って、まともに飲むの初めてなんだよ。悪ぃか」
高耶は怒ったように呟いた。
……そうなのか。
長秀と直江は絶句した。
忘れていたが、彼は信じられないような境遇に育ってきたひとなのだ。
悪魔にも似た父親の下、肉体的には常に監視され、精神的には徹底的に放置されて、外に出るのは学校へ通うときだけ。その行き帰りも車でのことで、外で誰かとお茶することなどできたわけがない。家でも、家族の団欒を持つなんて、さらに起こり得るはずもなく……。
―――憐れむなんて許されないけれど、それでも不憫にすぎるぜ、お前は。
長秀は初めて高耶の境遇についての資料を読んだときの怒りを、思い出した。
―――、、、、
二つのあのとき、沸騰するほどの怒りというものがよくわかった。
高耶の父親の所業を知った自分は、
「許せねえ!!」
と、―――こんな奴、人間じゃねぇ、と、その男を罵った。自分にとって何よりも尊い上杉宗家が、たかだかディアの一民間人にあそこまで弄ばれ、虐げられてきたなど、許せなかった。
けれど、その鉾先は本当にあの男にだけ向けられていたものか?
……違う。何より許しがたかったのは、怒りを感じたのは―――自らの不甲斐なさだったのだ。
何も知らず、何をしてやることもできなかった、自分への。
その思いは、あのとき―――目の前で城が落ちたあのときの、自分の無力さへのどうしようもないほどの怒りに、余りにも酷似して……
だから俺は考えたくなかった。果てない苦痛を自ら見つめ続ける強さを、俺は探せなかったんだ。
無理やり頭の隅に追いやってしまうしかなかった。
そして、いらついていたんだ。お前にあたってたんだ。
これじゃあ、本末転倒だよな……。
「何黙りこんでんだよ。同情なんか許さねーぞ」
沈黙した二人に向かって、高耶は瞳を光らせた。
それはおそらく、やせ我慢ではない。
誇り高い彼の魂は、許さないのだ。傷ついたからといってそれを舐めさせることなどは。
―――だから、二人は気配を元に戻す。
「憐れんでなんかいないさ。悪いこと言ったな」
軽く謝って、長秀は再び自分のカップに集中した。もう、いつもの雰囲気に還っている。
「お砂糖二つでしたね。はい、どうぞ」
直江は角砂糖を二つ掬って高耶のカップに入れてやり、自らはそのまま口をつけた。
動かない相手に向かって、
「さ、そこのクッキーをつまんでみてください。甘さを抑えたいい味なんですよ。セサミのがおすすめです」
と卓中央に置かれたバスケットを示した。そこにはざっくりとした感じの、綺麗なきつね色に焼かれたクッキーが盛られている。手作り風のそれは、決して大きくはないながら、その味へのこだわりを買われて長い間人々に愛でられてきた、とある老舗のものだった。
「甘いの苦手……」
呟きながら一つ齧ってみた高耶は、
「あ、旨い」
と目を見張る。直江は満足げに微笑んで、
「でしょう?」
と肯いた。
そして、相手が菓子を食べるさまをしばらく目を細めて眺めていたが、ふと、思い出したように楓を呼んで、何やら菓子箱らしい包みを持って来させると、
「こんなものがあるんですが、お一つ試してみてください」
中から、綺麗に包装された小さな長方形のものを高耶に差し出した。
受け取って、高耶はそれをひっくり返し、表も裏も確認して、断定した。
チョコレートだった。
落ち着いたダークグリーンの外紙を剥くと、特有の銀色の包み紙が現れる。最後に残ったのは、シンプルな形でいながら実に上品な雰囲気を漂わせた、黒いチョコレートである。
「甘そうだよなあ」
少し困ったような顔で、高耶はそれを口に持ってゆく。
甘いものは苦手、とついさっき呟いていた彼なのに、直江はまったく頓着していない様子だった。長秀と共に、どこか目を輝かせながら、なりゆきを見守っている。
……黒い板の端っこが、高耶の口に入った。
「 !? 」
果たして、彼はびっくりしたようである。
「苦……」
そう。そのチョコレートは異様に苦かったのである。
直江は笑いながら、
「そうなんですよ。これはね、楓が時々ロンドンで買ってくるんですが、カカオ100%のチョコレートなんです」
「ノンシュガーってわけさ」
長秀が口を挟んだ。
「へーぇ、変わったものがあるんだな」
「まあ、たびたび買う人なんかは少ないでしょうね。ちょっとした話のたねにはなりますが。―――尤も、私は結構好きです」
直江は言って、自らも一つ包みを開けた。
ふうんと呟いていた高耶だったが、ふと疑問を覚える。
「……ロンドン?って言ったよな。何で楓がロンドンに行く用事なんかあんの?こっちの世界の人間でもないし、そもそも向こうの越の国は こっちの日本なんだから、海外に行く理由なんかないんじゃねーか」
ごく当然の疑問だったが、直江は至って平然と、
あるんですよ、理由はね。
と説明を始めた。
「楓は橘の《諜報》です。この役職の一族はずいぶん昔からこちらの世界に根を張っているんですよ。【橘】が存在を始めたころからね。直江は裏の影ですから、こちらの世界を把握する方がウェイトが高いんです。楓はですから、私よりずっとこちらの世界に馴染みが深いんですよ。
さて、こちらを把握しようと思ったら、日本だけでは済ませられないということはわかるでしょう?だから《諜報》も活動範囲が海外に及ぶことがままあるんです。
ロンドンはかつて世界を支配したところだから、《諜報》にとっては外せないポイントにあたります。よく出向いていますよ。楓たちは」
「なるほどね……いつごろからだって?」
「平安のごく初期のころにはもう。そうですね、千二三百年にはなりますか」
途方もない数字である。
「はあ !? 」
高耶はとうとう疲れ果ててしまった風だった。
長秀がそれを見て助け船を出す。
「ま、そのへんにしといたら?あとは休憩の後で順を追って説明してやろうぜ、直江」
「そうだな。これでは休憩になっていない」
肯いた直江は、頭を抱えている高耶を起こして、楓を呼んで葉を取り替えさせると、いつの間にか空になっていたカップに再び紅の液体を注いだ。
その香りにいくぶん元気を取り戻した高耶に、直江はにこりと微笑みかける。
「しばらくこんなことは忘れて、お茶を楽しみましょう」
それから、リビングには穏やかな時間が流れていった。
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