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朔夜【直江編】 超番外編 [ 星宵 ]


「夕涼みに行きませんか」

あの男がこんなことを言うのだから、ただの散歩で済まないことくらい、予想できて当然だったんだけど。

―――オレはさすがに目を見張っていた。





「……暗示?」
一言も喋らずにただレバーを操作し続けている運転手の方をちらりと見て、高耶が呟いた。
隣に座っている男は黙って瞳で肯いたのみ。

三両編成の電車はただ、暗い夜の線路をノンストップで走り続ける。



きれいな闇。

深い緑がガラスの向こうに浮かんでは消え、通り過ぎてゆく。
車内は明るい。その光が、近くの景色だけを浮かび上がらせる。

ガラスの窓に、手をついて覗き込めば、闇の鏡面に映った男の不思議な笑みと目が合ってどきりとした。

「静かでしょう?」
初めて、男が口を開いた。
肩に手を回して、同じように窓の外へ目を向ける。
どこを見ているのか、深い眼差しが闇を見つめた。

その横顔に、見惚れる。

端整な鼻梁が、後ろからの光に影を刻んで、より一層彫りを深く見せている。
きれいな弓形を描く眉の下に、鳶色をした瞳がまっすぐ前を見て、その上の、賢しく広い額には、茶色味の強い柔らかな髪が幾筋かこぼれ落ちている。
頬骨はシャープな線を描いて口元へと続き、唇がゆるく笑みを含んでいた。


やがて、その顔がゆっくりとこちらへ向いて、目が合った。






「静かで……この世に生きるものはただ、ここにある私たちだけのような気に、なりませんか」

何を想っているのか、不思議な表情のままで彼は呟いた。

「見えないだけだ」
返った声はやはり静かで平らだった。

「見えているもの、動いているものだけが生きているわけじゃない……」

静かで、暗くて、何も見えないとしても、決して二人だけじゃないんだ。


「……わかっています」

何の変化も見せずに、彼は答える。

そして再び、静かな夜の気配が満ちる。
車内は煌々と明るい。
けれど、真っ暗闇以上に透明で静まり返っていた。



夕涼みに行こうと誘った直江は、何の気なしについてきた高耶の手を引いて、真夜中の叡山電鉄に乗り込んだ。
車掌も、乗客もいない。
運転手が黙々と操作レバーを傾けるだけだ。
暗示をかけて、本来運行しているはずもない時間に直江はこの電車を貸し切ったのである。

車はひそやかに線路の上を滑りぬけてゆく。
寝静まった民家の際を、暗い木々の中を、深い山の入り口を、ノンストップで走り続ける。


静かな、夜の小旅行だった。






「どこまで、行くんだ」

流れてゆく暗い森を見るともなしに見つめながら、高耶が呟いた。

どこまで。

この列車の果ては存在している。むろんの話だ。
そういう意味ではない。

一体何処まで行きたいのか。

現実の世界を忘れて、静かな幻想の時間に逃げたいのか。
どこへ、行きたいのか―――


その質問の意図を読んで、肩の上の手がぴくりと動いた。

「……どこへでも」
答えは簡潔で、そして強いものを持っていた。

「最初に言ったとおり、私はどこへでも行きます。
あなたの後ろについて」

静かな情熱の秘められた声音が、しっとりと辺りを包む。
それを、相手の言葉が遮った。

「違うだろう?―――オレがどこへ行くかじゃない。お前がどこへ行こうとしているのかだ」


こんな風に連れ出して、二人きりで逃げ出して、一体どこまで行きたいんだ……?


「……今だけ。今だけこうしていてください……何もかも、忘れさせて」

直江は肩を強く抱き寄せて、そこに頭を伏せた。



作り出したかったのは、別の次元。

今ではないいつか。
ここではないどこか。


夜が明けたら消えてしまう、幻―――






やがて列車は終着駅に着いた。

鞍馬駅。
普段なら気のいい駅長が手を振って列車を招き入れるその小さなホームも、今はしんと静まり返っている。


列車を降りて改札をまたぐと、そこは小さなロータリーになっている。
温泉旅館へのバスが待っていたりする場所だ。
そこももちろん、暗く沈んでいる。

けれど、初めて来た場所に高耶は目を輝かせていた。
誰もいない夜に、いつもとは違うであろう場所を散策する、その面白さを思ってわくわくしているようだ。


「さ、行きましょうか」
観光地になど足を踏み入れることが許されなかった彼を、こうしてわざわざここまで連れてきた男は、相手のそんな様子に微笑して、手を差し出した。

「おう」
素直に手を握って、彼は先導するように飛ぶような足取りで歩き始めた。


車内での会話などすっかり払拭して、二人ははしゃいだ様子でゴーストタウンのような夜の鞍馬本町を歩いていった。



一人の暗闇は怖い。
けれど、お前がいたらそれだけでいい。それがすべてだから。

この世に二人きりではないと言ったけれど、本当はオレにとって今、世界と呼べるものはお前の存在そのものだ。

自分を確かめるには、お前の手を握ればいい。
世界を確かめるには、お前の声を聞けばいい。

存在は、認識なのだと、教えてくれたのは何ものだったろう。


今オレにはお前の手があって、その先にお前がいる。
お前の存在によって、オレの存在も確かになる。


―――そんな、気がする。



だからお願いです。オレの手を離さないで……いなくならないで―――……






静まりかえった参道の町が、街灯の白い蛍光にぼんやりと照らされて浮かび上がっていた。

真っ暗闇と、
そらぞらしさのニュアンスを含んだ街灯と、

どちらが、より、幻想を誘うのか―――


部分的に白く浮かび上がっている空間と、それ以外の闇。

光があるから闇が生まれる。

闇なくして光は認識されない。

―――そんなことを、思い出した。



離さないでほしいと望むのは、彼か、自分か。
今はまだ自分の庇護下にある、小さな竜の王。
けれどもう、すぐに一人で立たなければならなくなる、彼。

怖いと思う。

この手を離したとき、破滅するのは自分だけではなく、彼もまたそうなのではないだろうかと思う。

自分ひとりいなくなるのは怖くない。
けれど、彼を連れてゆくわけにはゆかない。

―――否。
怖いのは自分だった。

たとえばすっかり話してしまって、彼の顔に浮かぶであろう表情を思うこと。

たとえば黙って消えて、彼をひとり放り出すこと。

たとえば彼にいつかは忘れ去られてしまうだろうということ―――


今の自分が何をしても、すべては自分をがんじがらめに縛りつける糸になってしまう。



ここにいて。
手を繋いでその存在を確かめさせて。

この世にたった二人きりであったなら。
顔も見えない暗闇の中で、互いを知るのは指先から伝わる体温だけ。
そうであったなら、―――。



ねぇ、高耶さん。
今だけでもいい、ここにいてください。
俺一人のものであってください。


明日には、全て忘れさせてあげるから……






仁王門をくぐって、二人は砂利道を登っていった。

右の方には石の階段もあったのだが、真っ暗闇の中ではあまり安全とはいえないと、敢えてそちらへはいかなかった。
ざくり、ざくり。
踏みしめる四つの足音が、まるで全てが死に絶えたかのような、それでいて全てが満たされているかのような、永遠なる静寂の中に響いていた。

見渡す限りの黒。
青白い光が射しているほかは見事な夜のびろうど。

寒くはない。
まるで何かに包み込まれてでもいるような、気になる。
そう、優しい闇が二人の身体を抱いていた。


「―――なぁ」

見上げた先に細い細い月を見つけて、高耶が口を開いた。

「―――あぁ、もうすぐ新月ですね」

続きの言葉を発しない彼に、直江が呟く。

「向こうからこちらへの道が開く……」

こちらの新月は向こうの満月。
月の道が満ちる夜。

魔物たちがやってくる。
―――狩りの時間が始まる―――


「……なおえっ」

見上げた月に吸い込まれてゆきそうな気配を醸し出した男に、高耶が不安を募らせる。
必死に掴むシャツが、皺になるほど。


―――向こうへ帰るつもりでいるわけじゃない。そんなことわかってる。オレのいる場所がお前のいる場所だと言ったお前だから。 けれど、何だろうこの不安は。
まるでどこかへ行ってしまいそうだ。お前のオーラは……。

直江……直江……

ここにいて。

一体どうしてそんなに透明な気配を纏っているの?




「どうしたんです?……私はどこへも行きませんよ―――」

どこへも、と言う前の、ほんの少しの間が、ひどく気になった。



「こうしてあなたの手が私を求めてくれるから」

そう言って高耶の手に自らの手を重ねた男の横顔は、ひどく儚かった―――



怖い……


ひとりでに溢れてきた涙は、隠しようもなかった。






何を泣いているの――― ?
聞こえてきた声が、嘘のように温かくて、けれどあまりにも透明で、顔を上げることができなかった。

声もたてずにただ俯いてぽたぽたと涙を落とす彼を、喉元まで出かかった言葉を無理やり飲み込んで、それを隠すように男は掬い上げた。

「…… !? なに?」

突然抱き上げられて高耶は大きく瞬きをした。
その拍子に弾けた珠がまた一つこぼれ落ちて、夜の星灯りにきらりと光を残す。
こぼれていった光の軌跡を魅入られたように目で追ってから、直江はふとその源に視線を戻した。

「……泣き虫の子どもには、甘やかしてあげるのが一番」

真剣な眼差しをきれいに払拭して、男はふわりと微笑んだ。
悪戯っぽさを演出した不自然な行動の繋がり。

「泣き虫だぁ !? ふざけんな、降ろせよっ」

それに合わせて怒った子どもを演じる少年は、けれどやはり大人にはなりきれず……、

―――瞳はまだ震えていた。


それに気づいて気づかぬふりをする男は、そのまま彼を抱いて由岐神社までざくりざくりと歩いていった。


今にも崩れそうな苔むした門をくぐって少し急な石段を登ると、狭いながらも十分に存在感のある空間にたどり着く。
その右手の奥にさらに上への階段が続いていた。

白っぽい砂の敷かれたこの空間に来て、男は抱えていた少年の足を地面に下ろした。

けれど体を離しはしない。
これまでにないほど強く、直江は高耶の背を抱きしめていた。


「……直江。どうしたんだ?」
背と胴に回された二本の腕できつく密着させられた体が、それでいてどこか心もとなさを伴って、高耶は恐ろしくなって相手の背に爪を立てた。

このすがりつくような抱き方は何だ。
抱きしめられているのは自分の方なのに、どうしてお前の方がこんなに不安げなんだ―――?


背の痛みに、男の体へぱっと感覚が走り抜け、彼はようやく少しだけ腕の力を抜いた。

「すみません」

それでも離そうとはしない。
黒い髪に、愛しげに―――哀しげに―――頬を寄せて、やはり決して手放さないとでもいうように、いなくならないでと願うかのように腕の中に大切に抱き込む。


それが決して熱い抱擁ではなかったことが、どこかひんやりとした不安の押し寄せてきたことが、高耶の口を開かせた。

「直江、さっきから一体……」


「―――こういう、ことです……」

その声を遮って、男の奇妙に澄んだ声が落ちてきた。






その体が、ゆっくりと膝をついた。

背を抱いていた腕が離れる。
だらりと下へ向けて垂れ下がったそれには力がなく、高耶は慌てて自らも体を曲げて相手を覗き込んだ。

直江はつらそうに唇を引き結んでいた。
体をまっすぐに起こしているのがやっととでもいうような、真っ青な顔―――。

「直江 !? 」
突然の変化に、高耶は膝をついて相手の肩をつかんだ。

「どうしたんだよ!」

「―――ねぇ」
それを遮って、直江は何ともいえない声音で呟くように問うた。

「あなたは、私をどのくらい信じているの」

「な、っ…… !? 」

高耶の虚を突かれた顔などには見向きもせず、ただ独り言のように続ける。


「あなたなしでは生きてゆけない……その意味を、あなたは知りたいですか?」

「知っても変わらずにいられる、勇気がありますか」

「知ろうとする、勇気がありますか。パンドラの箱を開けるだけの」


垂れていた右腕だけをのろのろと上げて、直江は高耶の額に掌を当てた。
そして、親指と中指の腹で瞼を閉じてやる。

高耶は動けなかった。
掌を当てられた瞬間から、動こうとする力も衝動も、溶けるように消えてしまっていた。


直江は相手の脳だけを残して、他の機能を全て眠らせた。
そうして、話し出す―――

「―――あなたなしでは私はこれ以上存在していられない。
もうすぐ……この身に抱えた爆弾が狂い出す。このままでいたならば。
そのとき、私は消えます。

その筋書きを変えられるのは、あなたしかいない……

『直江』の直系は宗家の直系の協力なしには生をまっとうできない。
この身に生まれ持った、器に余るほどの力のせいで、私たちはそのままでは体が保たずに成長途中で壊れてしまうのです。
私ももう、その時期にさしかかりました。あと……一月もない。

その崩壊を防ぐことのできる唯一の手段が、宗家の人間に儀式を施してもらうことなのです。
この耐え切れない心臓を、竜の血で助けるという過程。それを施されれば器は壊れずに保たれます。

宗家……そう、今は、あなた一人だ。
そのたった一人が、私の体を生かす唯一の道なんですよ。
ええ、いっそ笑ってしまいたくなるくらい。ただの一つしか。
選択肢は他にはない。

あなたさえ私に心をくだされば、私はこのまま存在してゆけるんです」

男の瞳が、あからさまに自らを蔑む色を浮かべた。
相手の驚愕を、そして軽蔑を予想して、最初から決めてかかったニヒルな笑み。


そうして、自らに鞭を打つ。

「―――ねぇ、どう思いました?
これでも、私を信じていられますか―――」



いらえはない。
高耶の体はもはや、完全に眠らされている。答えようがないのだ。
目を見張ることも、震え出すことも、叫びだすこともできない。
指の一本すら、動かすことはできない。

ただ、霞のかかったような脳だけが、その言葉を受け止めるだけ。


相手を罵倒することはできなかった。
―――そして、相手の自嘲的な笑みを否定することも……。






「あなたにわかってほしい」

あなたに、どうして告げられなかったか。

告げずに隠し通すことができなかったか。



直江は『聞く』しかできない相手に向かって、一方的に話し続けた。


「嘘だと思ってほしくなかったから……
自分の命を永らえたいが為にあなたを探したわけではないと、言ってもあなたには信じられない。
疑い深くて臆病でそれでいて思い込んだらどうしようもない、そんなあなたに。
告げられたはずがない。

でも、信じてください。
信じてくれとは言いません。でも、これが私の本当の心なのだということを、知ってください―――

嘘はひとかけらもない。
弁明はしない。

今ここで言った言葉が全て。これが、私なんです……」


高耶に答える自由はなかった。……その答えが如何であれ。


―――そして、直江はがくりと崩れ落ちた……




『―――そだろォ……?』
意識の世界で、『高耶』が呆然と目を見開いた。
『見えて』いるのは、白い砂の上に不自然に倒れ伏した大きな体。
ぴくりとも動かない。
つい今まで、最後の言葉を紡いでいた唇は、ぱたりと力を失ってゆるく結ばれたまま。

一切が静まり返っていた。

さっきまで、この世に二人しか、と呟いていた彼もまた、静かなる世界の一つに溶け込まれ、残されたのは片割れただ独りだった。


世界に、動くものは『高耶』ただ独り……
最後の、一人。



『なあああああ』

『高耶』が意識世界一杯に、叫んだ―――






直江は絶叫する『高耶』を外から見ていた。

彼の意識世界で何が展開されているのか、殆ど予想通りの、いや、それ以上の絶望が吹き荒れていた。

俺を喪うことに、あなたはたぶん耐えられない……


このことを告げるとき、あなたがどうなってしまうのか、それが恐ろしくて、自分は今、幻影で彼に一度それを味わわせてみた。
心の準備をしてもらいたかった。

今彼が居るのは作り上げた幻影の中だが、これは程なく現実になることだ。

自分がどうして彼の傍にいるのか、その答えを実際に告げる勇気はない。
そうして、自分は勝手に滅びるだろう。
今彼が『見て』いるように、倒れて動かなくなるだろう。
壊れた人形のように。

倒れ伏して。



こんなことをしたからといって、何かが変わるわけではない。

誓いを破った自分をあなたは許さないだろうし、絶望するだろう。

どうせこうなるのだ。


―――それでも、一度でいい、自分を喪った彼がどうなるのか、見せてほしかった。


彼に心の準備をさせるとか、そんな相手の為にしたようなことを言ったけれど、それは嘘だ。
自分が、見たかった。
自分がいなくなった後のことを、見られないその光景を、見てみたかった。



狂ったように叫び続ける『高耶』を見て、直江は静かに唇の両端を持ち上げた。
自らを嘲笑う、哀しげな笑みだった。


―――大丈夫、高耶さん。今あなたが見ているものはただの幻だ。
すぐに目を覚まさせてあげる。
この記憶は、全て、忘れさせてあげるから。



再び、相手の額に掌を乗せて、暗示を解こうとした瞬間……

思いがけないことが起こった。






体の自由の利かないはずの高耶が、何か妙な動きを見せた。

―――と思った瞬間、彼は首筋から血を噴いた……



「……ッ !? 」

直江は、抱いていた体が突如としてがくんと重みを増したことを、真紅に視界を奪われながら悟った。


こんな、ばかな。


この腕の中で真紅の液体を噴き出し続ける肉の塊は、現実だった。
意識世界の彼ではない。
自分の腕の中の、高耶の手から、小さなポケットナイフがことりと落ちた。

真っ赤な池の中に、それは落ちて、月の光を映してぎらりと光る。

真っ赤な。

血に染まった刃―――




何か形容できないものが、直江の体を走りぬけた。


「ア、ア、ア……」

その瞳は人間とも思えないほど、眼球が飛び出してしまうのではないかと思われるほど、見開かれていた。

制御できない何かの為に、閉じることも抑えることもできない奇妙な声が喉から発せられる。


そして、


「ああああああああ……!!」


彼もまた、絶叫に狂い出す……







こんなばかな。


彼は動けないはずだった。
俺の暗示のせいで、彼の自由にできるのは意識だけのはずだった。

その中でどんな行動を取っても、それを現実に反映させることなど、できるはずもなかった。

それなのに。


どうして……!


どうやってあなたは俺の術から抜け出したんですか。
幻影を解く前に。
危険な賭けだとわかっていた。
だから暗示を解くのは必ず幻影を記憶から抹消した後のはずだったのに。

どうしてその前に、あなたは自ら俺の術中から抜け出してしまったんですか。

そして、自ら絶望に命を絶ってしまったんですか。


こんな、ばかな―――ッ





「ああぁぁぁぁアアアアアッ―――!」





狂った叫び声を上げ続ける男を、『高耶』は意識世界の中から見ていた。



お前にもわからせてやる。

オレがどうするかを。お前を喪ったオレが何をするかを。


お前はオレに幻影を見せてそれからその記憶を消そうとしたんだろう?
同じことを、お前にもやってやる。
オレの行動をお前に身をもってわからせ、それから記憶を消してやるよ。
その後で、お前もオレの記憶を消せばいい。

そうしたら、きれいさっぱり忘れてやる。


――― 一度経験したこの痛みを、本当に忘れることなんてできないって、それはわかってるけど。
意識に残らなくても、意識下の深い所には残っているんだ。かならず。

だからって、お前を責めるつもりなんてない。
どんな想いでこんなことをしたか、よくわかるから。オレも同じだから。

だけど、お前に一つだけ、言ってやりたいことがある。
何もかも自分だけで決着つけようとするのは止せよ。

自分が消えればいいと、それをオレに受け入れろと、そんな独りよがりなことを通すな―――!

お前はいいさ。自分一人消えればあとのことなんてどうなってもわかりやしない。
でも、オレはどうなる?
一人でのうのうと生き続けろというのか。

お前は何もわかってない。
どれだけオレの決意ができているかなんて、何もわかろうとしない。

あなたの居るところが私の居るところだ、とお前は言った。
オレの居るところにはお前が居なくちゃだめなんだろ?そうだろ?

だったら、お前がどこにも存在しないというのならオレの存在する場所もないんだ、それがどうしてわからない?


ああ腹が立つ。

馬鹿やろうッ―――!
そして、死ぬほど優しい奴……―――


「―――なおえ」
絶叫も嗄れて、物言わぬ真っ赤な体を抱きしめていた男は、腕の中から聞こえてきた声に打たれたように、そちらを見下ろした。
二度と開かないと思っていた瞼がうっすらと持ち上がり、真紅の瞳がこちらを見ていた。

「た……かやさん !? 」

一体どうなって、と叫びかかった唇を指先でとどめて、高耶は言葉を紡いだ。


「道を―――間違えるな」


オレの心はわかったはず。

だから、そのときは、もう間違いを犯さないで―――



「た……」

高耶は指を直江の顔に這わせて、ようやく額にたどり着いた。

そうして、見る者の胸を打つような透明で切ない微笑みを浮かべると、掌をぺたりと直江の額に沿わせて呟く……


「『忘れろ』」



―――恐ろしい迷夢は、そして解かれた……






―――直江はそれまでの悪夢を忘れた。
彼の意識は高耶の額に手を当てた瞬間に戻っている。


―――目を、覚まさせてあげる……
もう、怖い夢はお終いですよ―――


「『忘れて』……」

意識世界で叫び続ける『高耶』の幻覚を解いて、それから体に掛けた暗示も解いた。
相手の、ひそめられていた眉が、ゆっくりと弛緩した。

瞼がゆるゆると上がって、漆黒の二つの瞳が現れる。
星灯りを映して、その濡れたような黒がきらりと光った。
それが、単なる反射なのか、それとも涙であったのかは、誰にもわからない。

先ほどまでの恐ろしい夢はお互いが消し去ってしまった後だから。

直江は、高耶に見せた幻覚を『忘れ』させ、

高耶は、直江に逆襲した幻夢を『忘れ』させた。


直江は知らない。自分が何を見たのかを。

高耶は知らない。自分が何を見せられ、何を返したのかを。



不完全な記憶を抱いて、二人は見つめあった。


「―――なおえ?オレ、今何か……」

己の記憶の欠如に不審そうに眉を顰める高耶に、術を解いた直江が微笑みかけた。
その微笑みの中で、高耶は不審を忘れる。欠如以前に、それを不審と思ったことすらも忘れてしまった。

そうして、彼はいつもの彼に戻る。

「―――いつまで人のこと抱きしめてんだよ?さっさと離れろ、でかい犬!」

笑って、そう言った。
離れろ、なんて、本当に望んでいるわけじゃない。けれど、これが彼なりの愛情表現なのだ。
それがわかっているから、直江はさらに抱きしめる。
ぎゅうぎゅうと、わざときつく腕を締める。

「……しょうがねーなぁ……」

困ったように、その実とても嬉しそうに笑う高耶は、そう言って相手の背に腕を回した。
広い胸に顔をうずめてごろごろと猫のように懐く。

その無邪気な仕草に、直江は瞳を伏せた。

―――忘れて、ほしかった。あの幻惑はきれいに消してあげたかった。

けれど……覚えていてほしかった……




二人の記憶は不完全だった。欠如して、歪んでいた。
爆発した感情の捌け口は捻じ曲げられて不自然につながり、そして平静を保っていた。
つかの間の平安のために。


―――けれど、いつか思い出す。
必要なときには、必ずよみがえる。いつか、そう遠くはない、その時には―――



―――喪えない!

―――消えたくない!


逝かないで―――

追ってこないで―――



互いが互いを、ここまで想っているということ、それは決して消えてなくなったりしない。
極限の場所で見い出した本音は、必ずまた心に戻ってくる。


―――だから、そのときには。

『道を、間違えるな―――』






二人は、石段を上がっていった。
元のように手を繋いで、並んで。

じり、じり……
靴の底が段の上の砂粒を踏んで、音をたてる。

再び、静かな世界が広がっていた。
聞こえるのは互いの小さな息づかいと、足音、そして服のたてる微かな擦音。

あまり長くはない石段はすぐに終わって、そこからは砂利の敷かれた広い道になっている。
乏しい灯りのもとで、昼間よりもいっそう陰影のコントラストがはっきりしているそのでこぼこ道には、轍の跡が見て取れた。

「……こんなとこまで車で登れるのか?」
ふと、それに気づいた高耶が呟いた。
直江は、ああと肯いて、
「そうですね。今、参道の石段の改修工事が進められている最中だそうですから。
途中からはどのみち人力に頼るしかありませんが、行けるところまでは車で運んでくるのでしょう。
それに、病気で歩けない方が祈祷のために訪れることもあるでしょうし」

「そっか」
肯くように目を伏せた高耶は、それきり黙りこんだ。

再び、静寂が落ちた。

昼間見たならば、場にそぐわないであろう悪趣味なモニュメントも、夜目にはただの黒い塊にしか見えない。
黙ってその横を通り過ぎ、中の門を抜けた二人は九十九折に至った。


「―――どうして、黙っているんですか」

先に足を踏み出してゆく高耶の横顔を斜め後ろから痛いような視線で追っていた直江が、ようやく口を開いた。
足は止めない。
手を握る力を少し強くして、体を近づけていった。

「何、ってわけでもねーよ。この静かなのが好きなだけ」
並んだ男に流すような眼差しをくれて、相手は小さく首を振った。

「じゃあ、どうして手がこんなに冷たいんですか。……震えてる」
繋いだ手を持ち上げて、男はその甲に口づけた。

そうされて、ようやく高耶は足を止めた。

冷えてしまった指先に落ちてくる唇が温かくて、胸にじんわりとした何かが広がってゆく。
「どうしたの?」
頬に掌で触れられてはじめて、涙がこぼれていたことに気がついた。

「わからない……」

勝手に手が震える。
何かが怖いのか。目の前の男が怖いとでもいうのか。
手の震えが、止まらない。

「わからない……怖い……」

怖い……―――


ぼやけた視界の真ん中で、直江が不思議な微笑みを浮かべたのに気づいた。
悲しみと喜びとが同居するような……奇妙で、けれど綺麗な笑み。

ふと、頬に触れていた手が離れて、両手の拳を包み込むように握られた。
そして、代わりに目じりに柔らかいものが触れた。

唇……、だった。


―――あなたは憶えているのですね、と、聞き取れないくらい微かな声が聞こえた気がした。






瞼の上に温かい唇が押し当てられて、両の拳を大きな掌に包み込まれて。
体の内からとめどなく広がってきていた震えは引いていった。

―――ここにお前がいる……
呟くと、今晩幾度目かになる抱擁が与えられた。

体全体で相手の体温を感じる。嘘のように不安が消えてゆく。
背中に腕を回せば、厚い、引き締まった筋肉がわかる。
広い胸に顔を押しつければ、力強い鼓動が聞こえる。
愛しかった。
その規則正しいリズムが、たまらなくいとおしかった。

「―――なおえ」

何度も名前を呼んで、そのたびに律儀に返されるいらえ。

「なおえ……」
「ここにいますよ」
うん……

ゆっくりと顔を上げると、深い深い鳶色の瞳がまっすぐにこちらを見つめていた。

そのとき、頭の中で何かがはじけた。




―――震える肩が、項が、黒い髪が……冷たくなった手が、その何もかもが、愛惜しかった―――
記憶は消しても残っている。
その不安が、彼の体を根底から揺さぶっている。

消しても消しても残り続ける想い―――その深さに喜びを覚えてしまう自分は、どうしようもなく鬼だった。
こんなにも苦しめておきながら、その苦しみに想いの深さを見て取って、俺は嬉しかった。
ひどい男だ……
こんな男が傍にいていいはずがない。それでもあなたは俺にすがりつく。
……そう仕向けたのは他ならぬ自分だ。

ああ。永劫の輪を。
作っておきながら放って去ろうとするのか、俺は。


そして、彼が、顔を上げた。

目が合った。

―――血のような赤い瞳を認識した瞬間、何かが起こった……



「なおえ……何も言わなくていい……」

彼が、自ら身を乗り出して唇を重ねてきた。
背中に回っていた手を戻して、首に巻きつけ、離すまいと引き寄せられる。
やわらかい感触を知覚すると共に、そこから奔流のような想いが流れ込んできた。

「ん、ん」

行くなと、置いていくなと、求めていると、
―――そんなすがりつくような感情の一切を超えて、彼はただ『今』を願っていた。

その強い感情に、こちらの理性は溶けてなくなった。
求められたままに返し、貪り、呼吸を奪う。

耐えてきた壁を剥がしたとき、そこには本音しか残らない。

それがこの唇なら。
いつまででも重なり合っていたい。

もし、叶うなら。




「何も……言わなくていい。
お前の結論、オレの結論、ぶつかりあうときにはきっと、何かが見えるはず」

彼はやがて言った。
真紅の瞳で。

「そのときまで……底に沈めておくから。
受け入れるも、受け入れないも、そのときのことだ―――」

浮かんだ微笑みが、一切を白く押し流して……

残ったのはただ一言の本音。
自分が信じたかったのは、残したかったのは、つまるところこの一言だったのだ。
忘れないでほしい。
守りたい。この想いだけは。



―――あなたを愛している……



呟いた瞬間、間近で見ていた真紅の瞳がこの上なく幸せな笑みをたたえ……

そして、次の瞬きの後には漆黒の双眸は二度と赤くはならなかった。







―――それでもあなたは憶えている。真紅の瞳が知っている。

そう遠くはないそのときに、一体どんな結論を出すのか。
あなたの奥底で眠る、この星の夜の記憶だけが、それを知っている―――。








[ 星宵 ] 終

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