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白化梅




―――おまえさま ……
     雁をお信じくださいませ! 雁は、雁は何時いかなる時もおまえさまを
     想うておりますものを …… !

―――よくもぬけぬけと!
     皆が申しておるものを、知らぬですまされるか!


                 ―――おまえさま ……!




     ―― ―――      ―― ――      ―――  ―― 





奇妙な死に方をした男がいるという。
ところは、古都。牛の像と梅園で名高い宮の近くにひっそりと存在する、雁埜苑。
『白化梅』伝説で知られた、小さな庭園だ。




     ―― ―――      ―― ――      ―――  ――



しとしとと降り続ける雨の中を、二人は一つ傘の下に並んで歩いていた。
見上げる空はどんよりと重く、この天気が今日のうちに回復する見込みのないことを
教えている。
季節に似合わぬ肌寒さと、湿った雨の生温かさが地上にはたちこめていた。

「あ〜あ、残念。折角来たのになぁ」
高耶は古い石造りの鳥居をくぐりながら、首を振った。
見上げた先にあるのは直江の鳶色の瞳。傘を支えながら、相手が濡れないように、
と体を寄せて、答える。
「そうですね……。もし明日天気が良くなったとしても、今日のこの雨で大半は散って
しまうでしょうから。惜しいことをしました」
そろそろ終わりに近い梅を観に、わざわざこの洛中の梅宮までやって来た彼らだった。
ちょうどこちらでの仕事もあったので、それなら、と梅見物に一日予定を割いていたのだ。
ところが、この雨だ。
どうしてこの時期に、と思ってしまう、まるで梅雨のような永続的な雨だった。
しとしと。
ざぁざぁ、ではない。決して降りが激しいということはないのだが、かと言って、霧雨の
ようであるかというと、そうでもない。
確かな存在感を強調しながらも、嵐のような潔さはない。
ただ、しとしとと重く、永く、降り続ける雨だった。
およそ、梅見物向きの天候ではなかった。だが、
折角予定を空けてあるのだから、雨の中でもいい、出かけよう、と言う高耶の意見に
従って傘を広げた直江だった。

宮の中はひと気もなく、ひっそりとしている。
梅園の入り口に立って、受付の男性に入園料を納め、二人は狭い入り口から園内へ
足を踏み入れた。
中は想像以上に広い。
「誰も……いませんね」
「オレたちだけか」
高耶は呟いて、小さく息をはいた。
きっと晴れた日には子ども連れの夫婦や、写真愛好家、そして古都情緒を楽しむ人
たちで賑わっているのだろう園内は、今日はまるで忘れ去られた廃墟のように、ひっそりと
淋しげだった。
見渡す限りに立ち並んでいる梅たちも、頭をたれて涙を落としているように見えた。

「綺麗、だけど……、やっぱ淋しいな」
白梅、紅梅、美しい紅白のまだら……
さまざまな表情を見せる梅たちの一つ一つに見入りながら、最後に高耶はそう呟いた。
「やはり、雨の日に来たのは失敗でしたか」
花に向かって手をのばした高耶に傘を差しかけながら、直江が問う。
しかし、相手はふっと微笑んで首を振った。
「いいや。
これはこれで情緒的。それに、貸切だぜ?」
「確かに。なかなかできませんね。この宮を貸切になんて」
直江もつられるように笑った。
おまえならやりかねないけどな、と相手は呆れるぜポーズをとっている。
直江は傘を傾けてしまわないように気をつけてそんな彼を抱きしめた。
「ちょっ、直江……」
その唐突さに戸惑う高耶の頭の上で、直江はくすくすと笑って言う。
「一つ、訂正です。
やっぱり雨は困ります。傘が邪魔であなたを思いきり抱きしめられない」
ややあって、顔を直江の胸に伏せたまま、小さく高耶は呟いた。
「……ばぁか」

「ねえ、高耶さん。紅梅が白い花をつけることって、あると思いますか」
広い梅園をほぼ一周してまわり、茶所で北野梅茶の椀を両手に包んでその温かさを
楽しんでいた二人である。
梅は何色が好きだ、という話から派生した直江の問いに、
「ん〜? 絶対ないとは言えなさそうだけど、でも、珍しいんじゃねーか、相当」
ぐる、と瞳を回して高耶は首を振った。
「それってずっと昔から紅の花しかつけてなかった木が、途中で白い花を咲かせるように
なったってことなんだろ? わざわざ聞くくらいだから」
「ええ。そうです。
高耶さんは『白化梅』の伝承をご存じですか」
空になった茶碗を盆の上に返して、直江は再度問いかけた。
「何だ、それ? 初めて聞いた」
白化梅……?
「ご存じではないようですね。―――では、行きましょう」
直江は軽く肯いて立ち上がった。
一呼吸遅れてひょいと飛び上がり、高耶がもの問いたげな眼差しを相手に向けると、
「このすぐ近くに件の梅の木があるんですよ」
行ってみましょう、と再び雨の中へ傘を開いて、直江は手を差し出した。


そこは、気をつけていなければ見落としてしまいそうな、ひっそりとした庭園だった。
存在を現すのを遠慮するかのような朽ちかかった木の柵に囲まれたそこは、うっそりと
茂った木々に隠されて、中に何があるのかは窺えない。
わざわざ正面に回って入り口を探さなければ、中の様子を知ることはできないのだ。
梅の宮のすぐ裏と言ってもいいほど傍にありながら、殆ど知られていないのも肯ける。
これほどひっそりとした佇まいに加えて、ガイドブックにも載っていないのだ。地元の人なら
誰でも知っている話だが、一歩ここを離れると、よほどの伝承好きででもないかぎり、
この話を知る者は殆どいなかった。

「『白化梅』のお話をしましょう」
朽ちた小さな碑の横を、中へ向かって通り過ぎてゆきながら、直江が傍らの高耶に
概要を話し始めた。
この伝承はこうだ。
およそ三百年の昔、この地を治めていた地主の家に、隣村から村長の娘が嫁いだ。
雁という名のその奥方はたいそう梅を好いており、嫁入りの際にも、実家で自らが
育てていた若い紅梅をわざわざ新居に植え替えさせたほどだったという。それが、件の
『白化梅』だった。紅梅だったそれが白い花をつけるようになった背景には、雁の最期に
深いかかわりがあった。
自分の留守中に不貞をはたらいたとして夫に刀を向けられた雁は、この梅の木の下で
自らの喉へ懐剣を突きたてて果てたのである。

―――雁の身に疚しきことのないことはこの木が知っております。どうぞお確かめください!

流れた血は梅の木の根元を真っ赤に濡らしたという。
そして、紅の蕾をつけていたその木は翌朝、満開に白い花を咲かせた。
一点の曇りもない、雪のように白い花びらが一斉に咲き誇る異様を目にして初めて、
人々は雁の潔白を知ったのだった。
「人々は雁をこの木の下に埋め、このように囲って園とし、その供養としたそうです」
「それで、雁埜苑、か」
高耶は目の前に佇む一本の古木を、どこか遠くを見るような目で凝視した。
三百年という時間を生き続けてきた年老いた梅は、背丈こそ低いものの、苔むした幹は
どっしりと構え、雪のように白い花をつけた枝を四方に広げて見事だった。
「白梅……にしか、見えねーなぁ」
「そうですね。でも」
これを見てごらんなさい、と直江は上の方の枝を指した。
「何? ……蕾か、これ」
その指の先へ目を向けた高耶は、そこに小さな蕾を見つけた。
「ええ。これをよく見てください」
「ん? なんか変わったことが……?」
不思議そうに首を傾げながら、近づいてその蕾を凝視した彼は、あっと声を上げた。
「これ……紅い……?」
―――その蕾は、紅かった。寒紅梅のようなきついローズピンクではなくて、白に紅を
ほんのりと刷いたような、やわらかい赤だ。
しかし、この蕾が開いても決して雪のように白い花になるとは思えない。
彼は疑問符を面に貼り付けて傍らを見上げた。
「この蕾から、こんな白い花が咲くのか?」
「不思議でしょう? でも、これがこの木の特徴なんですよ。蕾は薄紅なのに、花が
開くと雪の白。この不可思議が伝説をより信憑性のあるものにしているんですね」
「そっか。……ところで、実際のところ、どうなんだ? ほんとの話なのか」
薄紅の蕾に触れるか触れないかというところへ指を伸ばして、高耶は背中の男へ問い
を投げた。男は傘を相手の腕の上へ差しかけながら微かに首を傾けた。
「さぁ。どうでしょうね。ただ、あなたにも見えているでしょうが、雁の魂がこの木にまだ
残っているのは事実です。ものも言わず、哀しげな姿で木のもとに腰掛けている」
「……そうだな」
瞳を曇らせて高耶は呟いた。
そして、おもむろに膝を折り、雁の前に目の高さをあわせた。
おそらくは娘だったころの姿を映しているのだろう、器量の良い優しげな少女がそこに
いる。
しかしその瞳はガラスのように虚ろで、何も映していなかった。
雁は、こちらを見ていない。
そもそも彼女の魂には、意志は残っていないようだった。目の前の光景に反応する様子
はなく、おそらくずっと昔からそうしてきたのだろう、ただ哀しげにうずくまっているのみ。
残留思念にも似た存在らしかった。
「なぁ、雁。あんたはいつまでそうしているつもりなんだ?」
高耶がそんな彼女に静かに声をかけた。
彼女は反応しない。
「あんたは、誰を待ってるんだ……?」
さらに言葉を重ねても、雁の瞳は虚ろなままだ。
「……オレなら、あんたを成仏させられる。
すべてを終わらせて、静かな世界へ逝きたくはないか……?」
無念のままに、ずっと永い間こうして哀しげに梅の木の下でうずくまっていた孤独な魂へ
道を示そうと、彼は辛抱強く語りかけた。
けれど、いらえはない。
「……高耶さん」
やがて、直江がそっととどめるような声を発した。
それ以上続けてもどうしようもないことだと。
「……なら、同意は待たない。このままこうして現世に留まるなんて、可哀想だ……」
高耶はかぶりを振り、少し歪んだような声で呟くように言って《調伏》の構えをとった。
「高耶さん !? 」
「いいから黙って見……うわっ!」

―――二人の目の前を閃光が散った。

ふいの攻撃に、高耶は驚いてとどめようとした直江もろともに吹っ飛ばされた。
「く!」
地面に叩きつけられた二人はすぐに跳ね起き、第二弾に備えたが、さきほどの攻撃
を仕掛けてきた当人の姿を目にし、絶句した。

はらはらと、真珠のような涙が雁の白い頬を伝っていた―――。





「……あんな顔見たら、無理やり《調伏》なんてできねーよな……」
梅の木に背を向けて歩き出しながら、高耶は呟いた。
「そうですね。彼女はただ、ああしていたいのだと、知らされました。
私たちなどから見ればつらいだけだろうと思うことですが、彼女にとっては唯一の望み
なんですね……」
直江も湿った声音で肯く。

『どうぞ、捨て置いてくださいまし…… 他には何も望みませぬゆえ……』
雁はそう言って、珠の滴をぽろぽろとこぼしていた。
消え入るような細い声で、ただそれだけを望んでいた。

「……誰に迷惑をかけるでもなし、当人の好きなようにさせてやろうさ」
やがて雁埜苑の入り口へ帰りついて、高耶は一度だけ奥を振り返ると、沈みこんだ心を
振り払うように、首を振った。
「―――帰りましょうか」
傘を低めに保ち、直江は相手の肩を引き寄せた。
雨は永久に変わらず、しとしとと振り続けている。
絶えず水滴の跳ねているアスファルトに足を踏み出して、ふと二人は顔を上げた。
向かいから、男がやってくる。
わき目をふることもなく、まっすぐにこちらへ歩いてくる。
やがて、男は二人の横をすれ違って行った。そのまま雁埜苑に消えてゆく。
何となくその後姿が気にかかって、二人はしばらく男の消えたあとを凝視していた。

―――そして、今の感じは何だろう、と不可思議な想いにとらわれながらも、二人はやがて
ふいと首を振って、帰途についた。


                                続



[白化梅] 前編 後編

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